春夏通じて戦前から7度の優勝、そして大正・昭和・平成とすべての元号で優勝したことのある唯一のチームが松山商(愛媛)である。
もはや四国きっての古豪的存在とも言えるが、この名門が春夏の甲子園で初めて全国制覇を成し遂げたのが春の選抜だった。1925年の第2回大会のことである。
この大会、松山商は広陵中(現・広陵=広島)相手に4‐3の接戦で1回戦を勝ち上がると準々決勝の横浜商(神奈川)には13‐5と圧勝。準決勝の甲陽中(現・甲陽学院=兵庫)との試合では相手の7つのエラーに乗じて7‐3と快勝し、決勝戦への進出を果たした。
迎えた相手は前年の第1回大会優勝校の高松商(香川)。この当時は夏の甲子園の四国予選で何度も戦っていた宿敵でもある。この強豪相手に松山商は5回表に2点の先行を許し、そのまま終盤戦へと突入。もはやこのまま高松商に押し切られるかと思われた7回裏、1アウト満塁のチャンスをつかむと走者一掃の三塁打が飛び出し、一気に逆転。松山商はエースの森本茂がキレのある速球と威力のあるシュート、さらに落差の大きなドロップを武器に高松商打線をわずか2安打に抑えてこのまま3‐2で逃げ切り、因縁の相手でもあった高松商のV2を阻止。みごと初優勝を飾ったのだった。
松山商が地元・愛媛に2度目の大旗を持ち帰ったのも春の選抜であった。1932年の第9回大会。エース・三森秀夫はアウトドロップを武器に対戦相手の打者を幻惑。キッチャーの藤堂勇とのバッテリーで頭脳的なピッチングを展開し、初戦の岐阜商(現・県岐阜商)と準々決勝の八尾中(現・八尾=大阪)との試合をともに8‐0で連続完封勝利を飾った。準決勝の中京商(現・中京大中京=愛知)は延長10回に突入する接戦の末に、3‐2で辛勝。ついに2度目の春選抜制覇に王手をかけたのである。
対する相手は県立明石(兵庫)。“世紀の剛球投手”と言われた楠本保のチームだ。
楠本は、その剛速球を武器に初戦の広陵中戦で大会史上初の先発全員奪三振を達成、準々決勝の京都師範(現在は廃校)との試合でも再び全員奪三振を記録したほどの実力だった。この難敵相手に松山商は4回表にエースの三森みずから左中間へのタイムリー二塁打を放ち1点を先制。この虎の子の1点を守りきって、2度目の選抜制覇を果たしたのだった。
松山商の選抜優勝はこの2回のみ。冒頭に7度の優勝と書いたが、以後はすべて夏の選手権である。準優勝は春1回、夏3回。圧倒的なその成績から、いつの頃からか松山商は“夏将軍”と呼ばれるようになったのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=