96年夏の選手権の決勝戦は3-3の同点のまま、延長10回裏に突入していた。守るのは27年ぶり5回目の優勝を狙う松山商(愛媛)。片や攻撃側は過去2度の準優勝、今回悲願の初優勝を目指す熊本工。古豪同士の一戦だった。状況は1死満塁と熊本工がサヨナラ優勝のチャンスを迎えていた。
この絶体絶命の場面で松山商ベンチは一つの決断を下す。ライトに下げていた先発投手に代わり、本職の矢野勝嗣を送り込んだのだ。
熊本工の次打者は左打者。右方向への打球には細心の注意を払わなければならない。それならライトは本職の矢野に交代させようというのが、松山商ベンチの意図だった。
そして、その場面がやって来た。打つ気満々のバッターは初球の内角球をフルスイング。打球は高々とライト後方へと舞い上がった。浜風で急激に押し戻されていたが、それでも犠牲フライには十分おつりがくるほどの飛距離だった。その打球をキャッチした矢野は瞬時にこう判断していた。
「距離から見てワンバウンド送球か中継プレーが普通だが、その通り投げたらセーフでサヨナラ負け。もう後がない。開き直ってノーバウンドを狙った」
矢野はおよそ80メートルは越える大遠投を選択したのだ。
それはやや上ずった返球だった。だが、送球は浜風に乗って大きく弧を描き、信じられない軌道を描く。なんと三塁側にやや体を移していた捕手のミットにダイレクトに収まったのだ。そこにちょうど激しく滑り込んでくる三塁ランナーの上半身。本塁上、微妙なタイミングで交錯する二人。一瞬の間ののち、球審が宣告したのは「アウト」だった。
歓喜の松山商ナインはスーパー返球を見せた矢野を取り囲み、まるでもう優勝したかのような足どりでベンチに戻っていく。その間、「やった!やった!」と矢野は何度も右手を突き上げていた。それでもこの奇跡の当事者は、投げた瞬間、実は「しまった!」と思ったという。「送球が山なりになってしまったんで、ダメだと思った。球審も見えなかった」のだが、飛び跳ねる一塁手を見て、本塁封殺という最高の結果を知ることができたのだ。
勢いに乗った矢野は11回表に先頭打者として二塁打で出塁。これをきっかけに松山商は一気に3点を勝ち越し、27年ぶり、5回目の優勝を果たしたのである。
熊本の悲願を“投げ砕いた”バックホーム送球。後年、矢野はテレビ局の取材で奇跡のバックホームを再現する企画に挑戦している。40球ほど遠投を行ったが、そのときは1球も捕手のミットに収まらなかったという。
今夏は熊本県代表の秀学館高校が大躍進(19日現在で準決勝進出)。はたして、震災からの復興を目指す県民に笑顔と元気を与えられるだろうか!
(高校野球評論家・上杉純也)