1915年に第1回の夏の選手権が開催されて以降、四国勢として初めて夏の甲子園で優勝を飾ったのが25年第11回大会の高松商(香川)である。同年春に開催された第2回春の選抜では同じ四国勢の松山商(愛媛)の前に決勝戦で2‐3と惜敗。準優勝に泣いたが、夏の選手権でみごとにリベンジを果たしたのだ。
主力は剛球が武器の宮武三郎(元・阪急)と左腕からひねくれ球を操る本田竹蔵(関大)の2枚エースと剛打の三塁手・水原茂(元・読売)らの大型チームで、初戦の東山中(現・東山=京都)戦を14‐0という大差で勝利。投げては宮武-本田の継投策で13奪三振。攻めては12安打を放ち、特に二塁手の多胡隆義(慶大)は二塁打1、三塁打1、本塁打1の計3安打をマーク。“恐怖の8番打者”として観客を沸かせている。
準々決勝では静岡中(現・静岡)相手にまたも宮武-本田のリレーが決まり、15奪三振。宮武は打でも三塁打を含む3安打を放ち気を吐く。結局、4‐1で快勝を収めている。さらに準決勝では大連商(満州)を9‐2で一蹴し、四国勢として初めて夏の甲子園の決勝戦へと進出したのだった。
決勝戦の相手は東の雄・早稲田実(東京)。好投手・高橋を中心にした投攻守にバランスの良いチームだったが、高松商は2回表にこの高橋を一気に攻略。左バッターの小島正が満塁で三塁打を放つなど一挙5得点を挙げ、試合の主導権を握った。そしてこの試合も宮武-本田の継投で締め、早実の反撃を8回裏の3点だけに抑え、5‐3で勝利。この高松商の優勝で初めて深紅の大優勝旗が四国へと渡ることとなったのだ。それは四国球界全体の悲願が叶った瞬間でもあった。
この優勝から2年後の27年第13回大会で、高松商は2度目の優勝を果たす。2年前と同様に2人の投手を併用しての栄冠であった。1人は巨体から放る速球とドロップに威力のある井川喜代一(慶大)。そしてもう1人が2年前の優勝時にはサードを守っていた水原茂である。水原はサイドスローで一球ごとに「どうだ!」と気合いのかけ声を入れる独特の投法を持ち味としていた。
初戦の相手は第一神港商(現・神港橘=兵庫)。まずはこれに8‐1で快勝する。水原が被安打3で完投すれば、打線は11安打。中でも4番の井川は三塁打と本塁打を1本ずつ放ち、豪打者ぶりを発揮した。続く北野中(現・北野=大阪)戦も8‐1で勝利。今度は井川が完投し、打線は16安打。水原はライトを守り、三塁打を含む3安打をマークしている。
一転、準々決勝と準決勝は苦戦の展開となった。準々決勝では福岡中(現・福岡=岩手)のエース・戸来の前に4安打に抑えられ、延長12回裏に下位打線の奮起で1‐0のサヨナラ勝ち。高松商は井川-水原の継投で3安打しか許さなかったが、結果的に福岡中打線の貧打に助けられた形となった。準決勝も愛知商(現・瑞陵)と大接戦。結果的に1回表に取ったスミイチの1点を水原が3安打完封で守り切る形となった。
決勝戦は広陵中(現・広陵=広島)との優勝候補同士の激突となった。だが、広陵中はエースの八十川祥が前日の準決勝で延長14回を投げ抜いた疲労からか球威がなかった。さらに守備陣もエラー5を記録。高松商はこれにつけ込み、井川の長打なども効いて5‐1と圧勝。最後は水原-井川-水原の継投で試合を締めている。そしてこの高松商の2度の優勝が現在までにおける夏の選手権での香川県勢の栄冠となっているのである。第100回を迎える今大会、香川県代表として甲子園に乗り込む丸亀城西は3度目の優勝旗を故郷に持ち帰ることが出来るのだろうか。
(高校野球評論家・上杉純也)