現在では灘高と並ぶ兵庫県下きっての進学校だが、戦前は野球部の戦績も優秀だった。1923年の第9回大会で初出場初優勝を果たした甲陽中(現・甲陽学院)のことである。当時は学校創立5年目。当然、野球部は出来たばかりだが、県予選では神戸商などの強豪校を破り、本大会へと進出。“無名校”の快進撃が始まったのである。
初戦の宇都宮商戦は0‐2で迎えた5回裏に一挙3得点。結果、8‐2で逆転勝利を収めると2回戦では強豪・松山商(愛媛)と対戦。この時の松山商のエースは剛腕と言われ、のちに巨人と阪神で監督を務める藤本定義だった。この藤本の前に甲陽中打線は完全に沈黙。8回を終わって0‐2とリードを許す展開となっていた。だが、甲陽中は絶体絶命の9回表に1死一、二塁のチャンスをつかむ。するとここで4番・岡田貴一が起死回生の逆転3ランを放ったのである。
準々決勝も東の名門・早稲田実(東京)が相手だったが、これを6‐1で退けてついにベスト4まで進出。決勝戦進出を懸けて立命館中(現・立命館=京都)と対戦することに。この地元・関西勢対決に当時の舞台だった鳴尾球場ではちょっとした事件が起きることとなる。ファンがあふれかえり、一塁からライトにかけての観客がグラウンドになだれ込んでしまったのだ。当然、試合中断のパニックである。そしてこのアクシデントが阪神電鉄に“甲子園球場”建設の決断をさせることとなったのだ。試合は立命館中が4回裏に一挙4点を取り試合を優位に進めるかと思われたが、甲陽中は5回表に1点を返すと7回表には7得点を挙げるビッグイニングを作った。このあとも着々と加点し、結局、13‐5という大差で決勝戦進出を決めたのであった。
迎えた決勝戦の相手は大会史上初の2年連続優勝を果たし、3連覇を狙う強豪・和歌山中(現・桐蔭)だった。“新顔”の甲陽中は初回にいきなり1点を先制されたが、決勝戦までの4試合中3試合で逆転勝ちを飾った打線が4回表に奮起する。相手のエラーも重なって4点を挙げたのだ。最終回にも1点を追加し、その裏の和歌山中の反撃を1点に抑えて5‐2で勝利。鳴尾球場での最後の優勝校となり、和歌山中3連覇の夢を断ったのであった。
この後、甲陽中は春の選抜に8回、夏の選手権に3回出場し、文武両道の高校として全国に名を馳せたが、38年の第24回夏の選手権を最後に一度も甲子園への出場がない。かつての同校は甲子園球場のすぐ隣に位置していたため(現在は移転)、“近くて遠い甲子園”との言葉も生まれたという。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=