現在、夏の甲子園で史上最多の優勝回数を誇っているのは中京大中京(愛知)である。計7度の全国制覇を成し遂げているのだが、これに次ぐ史上2位、計6度の優勝に輝いているのが古豪・広島商である。同校はまた、甲子園球場完成後の初代王者でもあった。1924年第10回大会でのことである。
この時の広島商監督・石本秀一(のちの広島カープ初代監督)は“東洋一の新球場”の広さに備えて広島の練習場で特別練習をしたという。その甲斐あって、初戦で優勝候補の一角とされた和歌山中(現・桐蔭)を4‐2で下す。エースの浜井武雄(慶大)が和中打線を6安打に抑える好投だった。続く準々決勝も優勝候補の第一神港商(現・神港橘=兵庫)と激突。試合は壮絶な打ち合いとなり、広島商は6‐10で迎えた8回表に梶上初一(慶大)のホームランなどで追いつき延長戦へ。その10回表に勝ち越しの3点を挙げた広島商が13‐10という打撃戦を制して金星を挙げたのである。
準決勝は大連商(満州)と対戦。この試合も点の取り合いとなり、広島商は5‐6とリードされた9回裏にランナー三塁から、エース浜井が二塁後方へ落ちるテキサスヒットを放ち、同点に追いつく。そして延長12回裏に好走塁から1点をもぎ取り7‐6でサヨナラ勝ちとなった。
迎えた決勝戦の相手は松本商(現・松商学園=長野)。ここまで2試合連続で打撃戦を勝ち抜いた広島商だったが、一転、この試合は8回表を終わって0‐0の投手戦となっていた。その8回裏に広島商打線に連打が生まれる。一挙に3点を奪い、3‐0で逃げ切ったのであった。広島商の優勝は広島県勢としてはもちろん、近畿以西のチームとしても初優勝、さらに実業学校としても大会史上初の優勝となったのである。
この後、広島商は29年の第15回大会をエース・生田規之(立大)で優勝。その翌年も灰山元治(元・朝日軍)と鶴岡一人(元・南海)を投打の主軸に据えて連続Vと、大会史上2校目の連覇を成し遂げる。戦後も’57年の第39回大会で4度目の優勝、さらに73年の第55回大会でも佃正樹(法大─三菱重工広島)と達川光男(元・広島)のバッテリーを軸に快進撃。決勝戦の静岡戦は2‐2の9回裏にサヨナラスクイズを決め、5度目の栄冠を勝ち取っている。
6度目の優勝は88年の第70回大会。“バントでV6を決めた”と語り伝えられる戦いを展開した。
初戦の上田東(長野)戦は延長10回4‐3でサヨナラ勝ち。続く日大一(東東京)との試合では15安打を放ち、12‐1と一蹴する。準々決勝では九州の名門・津久見(大分)と対戦。津久見には大会屈指の右腕と言われた川崎憲次郎(元・ヤクルトなど)が君臨していたが、6安打6犠打で5点をもぎ取り、投げてはエースの上野貴大が完封。5‐0と快勝した。準決勝の浦和市立(埼玉)戦も接戦の末、4‐2で辛勝。そして決勝戦では大会No.1左腕の前田幸長(元・中日など)と“九州のバース”こと山之内健一(元・福岡ダイエー)を擁する超大型チームの福岡第一と対戦。広島商はエース・上田が好投し、前田と息詰まる投手戦を展開。0‐0で迎えた9回表に2死二塁から4番の重広和司がライトオーバーのタイムリー二塁打を放ち、虎の子の1点を先制。これを上野がガッチリと守って通算6度目の全国制覇が達成されたのであった。
この大会で広島商は通算26個の犠打を決めるなど、いわゆる機動力と堅守で勝ち抜く“広商野球”で頂点に。88年といえば元号にすると“昭和63年”。いわゆる昔からの“甲子園戦法”を体現したチームが“昭和最後の優勝校”となったのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=