高校野球界には長きに渡って“悲願の優勝旗の白河の関越え”という言葉がある。東北地方のチームがいまだに春夏の甲子園で優勝できてていないことを指しているのだが、2004年にこの白河の関を一気に飛び越えて、初めて北海道へと優勝旗が降り立った。第86回夏の選手権を制した駒大苫小牧(南北海道)による快挙である。
駒苫はこの翌年に田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)を擁して夏の選手権史上6校目の連覇を果たし、翌々年には史上2校目の3連覇を狙うが、惜しくも準Vに終わるなど、高校野球界に革命を起こした。そして、その序章となった最初の優勝もまた、高校野球史に残る軌跡を残しているのである。
チームを率いていたのは九州の名門・佐賀商出身で駒苫の監督に就任して9年目となる香田誉士史。香田は、北海道のチームが甲子園で勝てないのは打力不足にあると分析。それを克服するために、冬場でも室内練習場で徹底的に打ち込ませていた。その成果がこの大会で発揮されたのである。
初戦となった2回戦の佐世保実(長崎)戦は計15安打を放ち、7‐3、3回戦の強豪・日大三(西東京)戦でも計11安打で7‐6と2試合連続で打ち勝ち、ベスト8へと進出。何と夏の甲子園で北海道勢が東京都勢に勝ったのは54年ぶりのことでもあった。
実はこの大会、優勝候補の最右翼とされていたのはダルビッシュ有(シカゴ・カブス)擁する東北(宮城)。この東北を含む東北勢の全チームが3回戦ですべて姿を消してしまったこともあって、NHKのある女性アナウンサーが「今年も東北勢の悲願である優勝旗の白河の関越えはなりませんでした」という趣旨のコメントを発したのだが、ここまでの2戦でその打力を見せつけた駒苫は、その時点でもまったくノーマークだったのだった。
迎えた準々決勝の相手は好投手・涌井秀章(現・千葉ロッテ)擁する横浜(神奈川)だった。戦前の予想は圧倒的に不利だったが、この試合はその打力をついに全国に知らしめる戦いとなった。何と駒苫打線は7回までに涌井に14安打を浴びせ、KOしてしまったのである。中でも2年生の7番・林裕也が2回表にバックスクリーン横へ先制ソロを放つと、続く2打席目にはレフトへの適時二塁打。さらに第3打席にはライトへの適時三塁打と大爆発。7回表の第4打席にも適時左前安打を放ち、夏の大会史上5人目となるサイクル安打を達成したのである。終わってみればチーム全体で計18安打。強力打線は本物だと思わせる猛打ぶりで北海道勢としては76年ぶりとなるベスト4進出を果たしたのである。
準決勝も打撃戦となったが、14安打の駒苫が12安打の東海大甲府(山梨)を10‐8で下し、ついに決勝戦へと進出。北海道勢悲願の初優勝を懸けた相手はこの春の選抜で初出場初優勝を果たし、夏も初出場で決勝戦に進出。史上初の“春夏初出場連覇”を狙う済美(愛媛)だった。この強敵相手に試合は序盤から激しい点の取り合いとなり、6回を終わって9‐9と壮絶な打ち合いとなった。結果的には7回裏に3点を取って突き放した駒苫が13‐10という大打撃戦を制して栄冠に輝くのだが、この試合でも駒苫打線は毎回の20安打を放った。結局、駒苫は大会を通じて174打数78安打。現在でも大会史上最高となっているチーム打率4割4分8厘をマークしたのである。北海道勢初の全国制覇は、まさにバットでもぎ取った優勝であったのだ。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=