日大三(西東京)といえば、もはや甲子園の常連というイメージだが、80~90年代にかけての夏の甲子園出場はわずか2回しかない。春夏通算3度の全国制覇を果たしてもいるが、実は夏よりも春の優勝のほうが早く、1971年の第43回大会にまでさかのぼる。
そんな同校が駆け足するかのごとく甲子園の強豪校となるのは21世紀以降のこと。今世紀最初の優勝校となった01年第83回夏の選手権からだろう。この時のチームは投手陣が近藤一樹(東京ヤクルト)と千葉英貴(元・横浜)の2枚看板に打撃陣が俊足巧打のトップ打者・都築克幸(元・中日)、3番・内田和也(元・東京ヤクルトなど)、4番・原島正光などの実力者ぞろい。大会前からそのチーム力は高く評価されていた。
チームは初戦の相手・樟南(鹿児島)に11‐7と打ち勝って波に乗った。この試合、1番の都築は5打数5安打の大活躍を見せる。続く花咲徳栄(埼玉)戦にも11‐4、3回戦の日本航空(山梨)との試合では都築、内田、原島の3人がそろって本塁打を放つなどして7‐1で快勝。準々決勝の明豊(大分)戦も自慢の打力で相手を9‐2と圧倒。まったく他を寄せつけずにベスト4へと進出する。
準決勝の相手は神奈川の強豪・横浜だった。試合は都築の今大会2本目となる本塁打などで日大三が8回を終わって6‐4とリードするも、粘る横浜に最終回に追いつかれてしまう。だが、このまま延長戦へ突入かと思われた9回裏に劇的なサヨナラ勝ち。7‐6の接戦を制して同校としては初となる夏の選手権決勝戦へと進出したのだった。
決勝戦の相手は竹内和也(元・西武)、左腕・島脇信也(元・オリックス)、清水信之介の“三本の矢”の継投で勝ち上がってきた近江(滋賀)だった。日大三は近江の先発・竹内を攻め、2回裏に3安打で2点を先制。だがこれ以降、ヒットが出ずに追加点が奪えなかった。逆に6回表に1点を返されてしまう。しかし、6回裏に近江が島脇に継投したことで流れが変わった。島脇が不調だったのである。7回裏に8・9番が連続四球を選ぶと都築がバント安打し、無死満塁のチャンス。ここから内野ゴロと原島の左前適時打で2点を追加。8回にも3番手の清水を攻めて都築がダメ押しとなる適時打を放ち、5‐1とリードを広げる。投げては近藤が最終回に1点を返されたものの、鋭い変化球を駆使して被安打7の2失点にまとめ、5‐2で勝利。夏の選手権初優勝を見事に飾るとともに、21世紀の夏の最初の覇者に輝いたのだった。この大会での日大三は前年夏に智弁和歌山が記録したチーム打率4割1分3厘を更新する4割2分7厘をマーク(当時の大会新記録となった)。3番の内田が2本塁打を放てば、4番の原島が大会タイ記録となる3試合連続本塁打をマーク。1番の都築も28打数16安打2本塁打を記録するなど大当たり。“強打の日大三”が他校投手陣を震え上がらせたすえにつかんだ栄冠となった。
そしてこの10年後、日大三はエース・吉永健太朗(早大ーJR東日本)、3番・畦上翔(法大)、4番・横尾俊建(北海道日本ハム)、5番・高山俊(阪神)を中心とした強力チームで2度目の夏制覇を果たす。決勝戦では13安打の猛攻で光星学院(現・八戸学院光星=青森)に11‐0と圧勝。同校がこの大会の6試合で奪った得点はなんと61を数えた。10年前の優勝時の50得点を遥かに超える超強力打線で他校をねじ伏せての優勝であった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=