昭和を代表する大横綱だった輪島大士氏が今月8日、下咽頭ガンと肺ガンによる衰弱で亡くなった。土俵上では「黄金の左」で数々の名勝負を繰り広げてきたが、その一方で私生活での豪快エピソードには事欠かず。晩年はガンで声帯を失ったものの最後まで“現役”を貫いた。「栄光と挫折」に彩られた波乱万丈の70年を振り返る。
「相撲界のしきたりや伝統に対しても、オレはオレ流を通すんだと無視したり、ルールを破ったりした。むろん、反発もあった。しかし、彼はそれまで学生相撲出身者が通用するのは三段目の下位と言われていたのを覆して、プロでも通用することを証明した最初の人でした。そればかりか、一気に頂点に駆け上がった。よしあしは別にして、最後まで自分流を通し抜きました」
輪島の破天荒な人生について、相撲評論家の中澤潔氏が振り返る。
輪島といえば、「黄金の左」の異名でライバル北の湖と優勝を競い合い、「輪湖時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。中澤氏が続ける。
「左の相四つでがっぷりと胸を合わせての相撲は白熱したが、輪島の左下手の使い方がうまく、やや輪島が勝った」
中でも生前の輪島が会心の一番と語っていたのが、74年名古屋場所でのこと。
輪島が一人横綱で大関・北の湖を1差で追っていたが、千秋楽に本割、優勝決定戦とも輪島が下手投げで連勝して逆転優勝した。場所後に北の湖が横綱に昇進して輪湖時代が幕を開ける。
対戦成績は輪島の23勝21敗。横綱を務めた73年から81年は北の湖の全盛期で、両者の熱戦は昭和の相撲史を彩った。
優勝も14回を数える名横綱であったが、私生活は破天荒そのものだった。
ベテラン相撲記者もこう続ける。
「学生相撲から相撲界入りした時もパーマをかけ、周囲をアッと言わせました。しかし、強かった。異色だったが、強さの裏付けがありました。横綱に昇進する時も、金色のまわしが目を引いた」
高級外車リンカーンを乗り回し、地方場所はホテル住まいというリッチな生活ぶりは、相撲関係者の間でも耳目を集めた。
「地方場所でホテル住まいというと、白鵬を思い出すが、それを最初にやりだしたのは輪島です。しかし、白鵬は家族を伴い、家庭サービスを兼ねているが、輪島は一人。好き放題できたわけです」(相撲関係者)
周囲の目を気にせず、放蕩三昧。金に頓着せず、その豪快な飲みっぷりは、銀座界隈でも有名だった。相撲関係者が続けて明かす。
「銀座のクラブで飲むでしょ。そこで芸能人と会うと、ごちそうしちゃうわけですよ。しかも、高級シャンパン、ドンペリを平気で入れる。懸賞金をもらったって、それを担保に500万円使ってしまうこともあった。千代の富士も銀座で店を経営し、派手に遊んでいたが、実際はドケチで知られていた。相撲取りはそれが普通なんですが、輪島は規格外でしたよ」
現役時代には、懸賞金を使い込んでしまい、翌年の確定申告の際、税金が払えず、日本相撲協会が800万円を立て替えたこともあった。これをきっかけに、懸賞金は税金分を差し引いて力士に渡すようになったというから、相撲協会にとってもいわく言いがたい「伝説の人」なのだ。