高度経済成長期の日本映画を牽引した東映の京都撮影所。映画界のキャリアをそこからスタートさせ、「荒磯に波」のトップに君臨したのが高岩淡元会長である。高倉健、檀ふみ、そして深作欣二──人生をフィルムとともに歩んだ名プロデューサーだけが知る、スタアの素顔を初めて明かした。
背中一面に入れ墨を入れた侠客。あるいは、ねじり鉢巻きにくわえタバコのトラック運転手。コンプライアンスに毒された現在においては眉をひそめるアウトローたちに、サラリーマンも学生も自分たちの姿を投影し、スクリーンに向かって拍手喝采をした時代があった──。
「仁義なき戦い」「網走番外地」「トラック野郎」「昭和残侠伝」‥‥。高度経済成長期の日本の映画界を牽引してきたのは、まぎれもなく東映の作品群だった。
「荒磯に波」のクレジットでおなじみの同社は、戦後に設立された後発の映画会社ながら、50年代の時代劇、60年代の任侠映画が爆発的な評判を呼び、東京と京都に各3万坪の撮影所を擁するほどに成長した。最盛期には、日本の映画市場の4割を独占するほどの勢いがあったという。
その東映の屋台骨を支え続け、中興の祖とも言える人物が、93年から02年まで社長を務めた高岩淡(82)である。カリスマ社長として鳴らした岡田茂から社長職を引き継いだ高岩だが、映画人生のスタートは東映京都撮影所からだった。撮影現場の制作進行から始まり、管理部長などを務めたのち、京都撮影所長を18年務めた。高岩が回想する。
「撮影所長をやっていた時も、片時も所長室なんかにはじっとしとらんで、始終撮影現場を歩き回ってました。ポロシャツにスリッパ履きでうろうろするもんだから、よく女優の付き人と間違われたもんです」
東映本体の社長だけではなく、東映京都スタジオ社長、東映音楽出版社長、東映ビデオ社長など、数々の関連会社の社長のほか、日本アカデミー賞協会会長なども務めた高岩は、制作の“現場”出身という稀有な存在だ。多くのヒット映画のプロデュースも手がけ、映画の神様に愛された、重鎮と呼ぶことのできる人物である。
02年に東映本体の社長を退任したあと、会長に就任した高岩は、06年に相談役となり、12年6月には東映の全ての役職から退いた。現在は、東京本社時代に暮らしたマンションを離れ、京都撮影所から車で15分程度の場所に建てた自宅で暮らしている。高岩の愛する京都撮影所は、自身の発案で75年に、その一角をテーマパーク化して「東映太秦映画村」として一般公開されている。そこに訪れると、高岩とともに映画人としての青春を過ごした古参のスタッフが彼を慕ってたちまち集まってくるのだ。
「時代劇が下火になって使わなくなったセットを使って映画村を開いて、“うまいこと廃物利用しよって”なんて当時の映画界の偉い方々にずいぶん、からかわれました」
修学旅行で訪れる学生たちが記念撮影に興じている時代劇のセットの前で、目を細める高岩だが、現在ここで撮影している作品が1本だと知ると、寂しそうな表情を見せた。
「やはり昔のにぎわいとはまったく違いますね‥‥」