60年近い映画人生の中で、高岩が関わってきたスタアたちは数知れないが、その中でも強烈な存在感とともに記憶しているのは、やはり高倉健だ。55年、東映の第2期ニューフェースとして入社した高倉健は、やがて「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝」シリーズなどで、東映のドル箱スタアとなる。当時の高倉健を、映画評論家・佐藤忠男は、「日本映画史3」(岩波書店)の中で、こう評している。
〈内から溢れてくる凶暴な衝動をじっと不器用に耐えているような感じを表現し、独特の倫理観を万感あふるる硬直した表情が示しているような印象があった〉
そして高岩がこう語るのだ。
「高倉健さんはものすごく自分を律する自律心の強い人。『鉄道員(ぽっぽや)』(99年)のロケで真冬の北海道に行った時も、撮影中はずっと立って皆の様子を見ていて、火にも当たらない。『スクワットを1500回もやって足腰を鍛えているから大丈夫です』と言うんです。誰にでも同じ立場に立って接すると同時に、人を裏切るような行為は絶対に許さない信念のある方です」
高倉健と高岩は、同じ学年の生まれ(高岩が30年の11月、高倉が31年2月の早生まれ)で、出身も同じ福岡県ということもあり、役者と制作者の関係を超えた交流をしてきた。
高倉健の父が亡くなった時、高倉は「君よ憤怒の河を渉れ」(76年)の撮影中だった。飛行機で帰ろうとしたところ全日空のストライキがあり、帰ることができなかった高倉を気遣い、高岩は急遽、部下のプロデューサーとともに、急行電車で7時間かけて京都から高倉健の地元、九州に向かい、神社で行われた葬儀に参列したのだ。高倉はそのことに感激し、高岩の母が亡くなった時、通夜の日の夜中にそっと来て、縁側の外の石段に線香をあげて帰って行ったという。
実父の急逝を経て作られた「君よ──」は、高倉健が東映を退社してフリーになったのち、任侠映画のイメージから脱却して、無実の罪を着せられた検事を演じた名作で、中国でも公開され大ヒットとなった。徳間書店創業社長で大映の社長も務めた徳間康快が団長となって当時毎年行っていた日中映画交流の映画祭には、高岩が副団長となり、高倉とともに参加。訪れる先々で、高倉は神様扱いのような大歓迎を受けたのだ。訪問中、内モンゴルのフフホトを訪れた時、高倉と交わした会話がとても印象的だったと高岩が語る。
「何に関しても勉強熱心な高倉さんは、行事が終わったあとのホテルでコーヒーを飲みながら、終戦をモンゴルで迎えてそのままその地に残った医者の話や、モンゴル相撲の話をするんです。『モンゴルの相撲は実力があるから、若い相撲取りを日本に連れてきて、相撲部屋に入れれば大いに期待できますよ』と。当時は朝青龍などが出るずっと前ですから、健さんはとても先見の明がありましたね」
高倉健には、自分よりプロデューサーの素質があったと、高岩は笑うのだった。