高岩にとって特別な思いのある女優といえば、檀ふみである。高岩が「ふみ」と親しみを込めた口調で彼女を呼ぶのは、檀ふみの父であり、作家の檀一雄が、高岩の異父兄だからである。檀ふみは、高岩の姪にあたる。
檀ふみが初めて出演した映画が、高倉健の「昭和残侠伝」シリーズの最終作となった、「昭和残侠伝・破れ傘」(72年)だった。当時京都撮影所の所長をしていた高岩のもとを訪れた高校生のふみを、東映のプロデューサーの俊藤浩滋がみそめて、映画デビューを懇願したのである。
「俊藤さんがふみをさらうようにして東京撮影所に連れていきました。ふみは映画に出るなんて夢にも思っていなかったので、半分泣きながら衣装合わせをしていた。そこでポンと肩を叩く人がいて、振り向くと健さんだった。不安そうなふみを見て、安心させようと思ったんでしょうね。健さんの顔を見ることで、ふみは納得して映画に出たんです」
檀ふみのデビューにあたって、高岩は異父兄であり、ふみにとっての実父・檀一雄のところに、挨拶に行った。当時ふみは慶応大学を目指す受験生だったが、檀一雄の、
「そういうチャンスにはどんどんアタックしたらいいじゃないか」
との言葉に励まされ、デビューに踏み切ったという。
その檀ふみを、高倉は何かにつけかわいがっていた。高倉が前述の日中映画祭に参加した時のこと。高岩から中国への同行を誘われた檀ふみだが、彼女には76年に起こった第一次天安門事件への反発から、当初中国行きにためらいがあったという。
「それが健さんも行くと話したら、ふみはころっと『私も行く』と言いよってな(笑)」
ふみの躊躇も、兄のように慕う高倉の前では、意味をなさなくなってしまうのだった。
高岩が東映の社長に就任した93年のことだった。高倉が高岩と檀ふみを招いて、なじみの中華料理店の特別室で、祝宴を開いたことがあった。話題になったのは、当時、「マディソン郡の橋」という、カメラマンと主婦の淡い不倫の恋を描いた小説のことだった。のちに、クリント・イーストウッドの監督・主演で映画化されたのだが、高倉と檀は、日本で制作した時の配役を語り合っていた。
「その時、ふみが『日本でやるなら高倉健さんと吉永小百合さんね』と言ったら、健さんは『何でそんな遠慮をすることがあるんだ。檀ふみでいいじゃないか』とぶっきらぼうに言ったんです」
高岩は映画プロデューサーとしても、「柳生一族の陰謀」(78年)、「鉄道員(ぽっぽや)」(99年)など、数々のヒット作を生み出している。86年に制作された映画「火宅の人」の原作は、異父兄という複雑な関係にある檀一雄が20年の歳月にわたり、死の直前にまでかけて完成させた。みずからの血縁にも関わる「火宅──」の映画化にあたって、企画・制作の高岩が指名した監督が盟友・深作欣二だった。