競馬界で天才といえば、武豊。それを追った弟は、デビュー2日目で重賞制覇の史上最短記録を作る。「魔術師」と呼ばれた彼らの父もまた、天才の誉れを受けた名手だった。競馬史に残るスター一族の系譜とDNAの深淵を、3回にわたって発掘する。
親の七光り──名を成した人物の跡を継いだ二世がえてして親を超えられないことを揶揄する言葉だ。競馬界でも親子二代で騎手になる例は珍しくないが、そろってスタージョッキーとして成功を収めている例はそう多くない。ターフで頼りになるのは自分だけ、親の名声など何の助けにもならないのが騎手という過酷な職業だからだ。
武邦彦(74)とその三男・豊(43)、そして四男・幸四郎(34)。遅咲きだった父に比べ、2人の息子は最優秀新人賞を獲得している違いはあるが、天才のDNAが受け継がれる武一族が競馬史に残るファミリーであることに疑いの余地はないだろう。
武家のルーツは、明治維新まで遡らなければならない。
「豊がスター騎手の階段を上り始めた頃、紙上で豊特集を何度も組んだ時に、武術の名手だったことを知りました」
そう話すのは、サンケイスポーツレース部の水戸正晴記者。もともとは薩摩藩武士の家柄で、開拓使として北海道・函館に渡った彦七氏は、兄が創業した牧場の経営を任され競馬と関わるようになり、馬術家として多くの騎手や調教師を育てた。さらに彦七氏の子息・芳彦氏は戦後、函館競馬の復興に尽力し、北海道馬主協会の理事を務めたほどだった。生まれ育った牧場で毎日サラブレッドと遊んでいた邦彦は、騎手になるべくしてなったと言える。
邦彦が騎手になろうとしたのは、中学2年生の時。京都競馬場で調教師だった叔父に誘われ、見習い騎手となる。
「まだ競馬学校はない時代で、厩舎の見習いからスタートするのが普通だった。騎手はフリーが当たり前の今と違って、各厩舎には必ず所属騎手がいた。厩舎の仕事を手伝いながら騎乗技術を学んで、騎手試験を受けることになる」(前出・水戸氏)
邦彦が騎手試験に合格したのは1957年、19歳の時だった。競馬がまだ社会的に認知されていない時期でレース数は少なく、デビューした年の騎乗回数はわずか96、しかも、そのうち33回は障害戦。勝ち星はわずか8(うち3勝が障害戦)だった。
豊はデビューした87年に554回も騎乗しているのと比べれば雲泥の差だ。この年、豊は当時の新人記録69勝をマークしているが、邦彦は「私だってあれだけ数多く乗っていれば、もっと勝っていたよ」と言う。負け惜しみではなく、本音だっただろう。