競馬史に詳しい記者が解説する。
「邦彦が調教師試験を通った30年前までは、それまでの達成者の人数で想像がつくように1000勝など容易ではなかった。大変な快挙であり、競馬界の功労者でもあった。一次試験免除は当然のことと受け止めたのを、今も覚えています」
今では3場同時開催が普通になり、レース数が増えて1000勝騎手は現役騎手だけでも11人もいる。一次試験の免除制度が03年で廃止されたのはやむをえないことなのだろう。
邦彦が厩舎を開業した87年は、豊がデビューした年でもあった。のちに父と兄のあとを追う幸四郎は父の厩舎の所属騎手としてデビューしたが、豊はそうではなかった。かつて父が所属した武田作十郎厩舎に入っている。前出・トラックマンが言う。
「開業当初の厩舎はいい馬がそろわないもの。だからかつてお世話になった厩舎のほうがいいと思ったのでしょう。邦彦の弟弟子、河内洋(現調教師)がいたのも心強かったでしょうね」
競馬界の兄弟弟子の絆は強い。口にこそ出さないものの、弟弟子に任せれば安心できると思ったはず。ただし、騎乗技術を教えるなら親子一緒のほうがいいのではと思いがちだが、そうではないらしい。栗東トレセン関係者が明かす。
「豊から『この世界に入ったのは、自分が望んでのこと。騎手になりたいと父に話した時も、そうか、と言われただけ。反対も賛成もされなかった』と聞いたことがある。だから騎乗技術を聞いたり教えられたりしたこともないというのは本当でしょう。まだダービージョッキーになる前の豊に対し、邦彦さんはレース前に『豊、俺はダービー獲ってるからな』と心理的にプレッシャーをかけるような言葉で追い込みつつ、奮起を促したといいます。それが魔術師としての教育哲学だったのでしょう」
だが豊にしてみれば、現役時の父のレースを見るだけで十分だった。2人の騎乗スタイルに共通するのは、センスと馬に負担をかけない柔らかな乗り方。それはみごとな勝利に結び付いた菊花賞が証明している。邦彦は78年のインターグシケン、豊はGI初勝利となった88年のスーパークリーク。グシケンは16番枠、クリークは17番枠と、そろって不利な外枠だった。この枠順を見た豊は、父の乗り方が脳裏に浮かぶ。内にピッタリつけて抜け出したシーン。豊はまるでビデオを再現するように乗り、そして勝った。
父の背中を見てきただけだったが、このレースこそ、受け継がれたDNAがなせる業だったのではないか。