新元号「令和」が発表され、平成の時代が終わりを迎えようとしている。
この平成の30年余りを振り返ると、フィギュアスケートにとって特筆すべき時代であったと言えよう。
今は日本のフィギュアスケート選手が男女ともに表彰台に乗り、入賞することが当たり前の時代。若い世代にとっては、日本がフィギュアスケート強豪国であることを当然のように思っているだろう。しかし、日本のフィギュアスケート史において、国際試合で表彰台に乗ることは、あり得ないほど遠い夢だったのだ。
日本のフィギュアスケートは長らく、欧米との圧倒的な力量の差の前になす術がなかった。浅田真央選手も指導した佐藤信夫コーチが現役時代の1963年。当時、日本には有力選手が佐藤しかおらず、五輪の出場枠を取る必要がないからと、日本スケート連盟から自費での遠征を申し渡されたほどだった。
それでも64年のインスブルック五輪で8位と健闘。翌年の世界選手権では4位という快挙を成し遂げる。その地位も、自身が国際大会に出場し、欧米のトップ選手の演技を8ミリフィルムに収めて帰ってくることで、日本では誰もやっていない様々な技術を見よう見まねで習得した結果だった。
そんな先人たちの努力の結果、最初に大活躍した日本選手が渡部絵美であり、伊藤みどりだったのだ。
「渡部さんは、79年にウィーンの世界選手権で3位を取り、日本人初のメダルを獲得。翌年のレークプラシッド冬季五輪でも6位入賞を果たしました。72年から全日本選手権は8連覇。並ぶものなしのトップ選手の地位を守り、画期的な活躍をしました。ハーフの渡部さんは幼少時から英語主体の生活で、アメリカにスケート留学するなど恵まれた環境にあり、国際レベルで戦える選手は絵美さんだけだったんです。その後、彗星のように現れたのが伊藤みどりさんなのです」(スポーツライター)
3回転アクセルを武器に戦った伊藤みどりは、昭和の終わりから頭角を現し、平成になると世界選手権での優勝、アルベールビル五輪での銀メダルなど、世界を圧倒するスケートで日本スケート界をリードするようになるのだ。まさに平成のフィギュアスケート新時代の始まりは伊藤みどりによってもたらされたと言えよう。
(芝公子)