生き馬の目を抜く芸能界において、派閥やグループは互助会の役目を果たしてきた。その変遷を知るベテラン芸能記者3人が「昭和」から「平成」の芸能界勢力地図を振り返る。
──現在、芸能界にはさまざまな派閥が存在していますが、そもそもの発端はどこにあるのでしょうか。
石川敏男 芸能人の派閥といえば、真っ先に思い当たるのは、60年代初期に結成された「六本木野獣会」です。大原麗子、峰岸徹、中尾彬、井上順など、のちに芸能界のスターとなる人物が六本木の「カフェ・レオス」や飯倉にあったイタリアンレストラン「キャンティ」に夜な夜な集い、情報交換したり、夢を語り合ったりしていました。活動期間は約4、5年と短いものでしたが、唯一無二と言えるほどの存在感を放っていましたね。
佐々木博之 70年代に入り、「金曜10時! うわさのチャンネル!!」でブレイクした和田アキ子さんが結成した「和田会」もエピソードに事欠かない存在としてたびたび取りざたされてきました。もともとはこの番組で「ゴッド姉ちゃん」として人気を博したアッコさんが共演者のせんだみつおやザ・デストロイヤーたちと飲み歩くようになり、それがきっかけで、現在も続く一大勢力につながっている。これだけの長寿グループは珍しい。ちなみに当時の「和田会」は、一次会で今はなき「エビスグランドボウル」でボウリング大会が行われていました。そのあと、和田が経営する「わだ家」で二次会、最後は紀尾井町の自宅で三次会というのが通例でした。
松本佳子 芸能人のグループって、最初の頃は芸能人行きつけの店に集まる常連たちを見た芸能記者が命名することが多かった。例えば、75年に四谷で開店し、86年に六本木に移転したバー「ホワイト」は有名でしたね。タモリやビートたけしをはじめ、吉川晃司や役所広司、藤子不二雄(A)など、まさに錚々たるメンバーが集まって交流していました。この団体の中心となったのがホワイトの名物ママとして名を馳せた宮崎三枝子さん。ホワイトにはジャンルを超えた著名人間が集まり、積極的に情報交換が行われていた。また、宮沢りえの母親・宮沢光子さんも常連で、娘のりえとビートたけしをくっつけようとセッティングしていたこともありました。ホワイトは、芸能界のパワーバランスに利用される場ともなっていて、ここではさまざまなものが決定され、当時の芸能界を裏から牛耳っていたと言われるほどの勢力を持っていましたね。
石川 その頃、歌舞伎界にも名跡の枠を超えた派閥ができつつありました。それが、市川新之助、尾上菊之助、尾上辰之助ら、同世代の歌舞伎役者による「三之助」です。この時代まで、歌舞伎の各名跡は特に交流を持っていませんでしたが、偶然にもこの3人の年齢が近かったことでつるむようになり、やがて「歌舞伎出身の芸能人」という一大派閥が誕生。今の芸能界と梨園の距離が近づいたのは、三之助の存在が欠かせませんね。