幕末から明治。激動の時代の英傑たちのエネルギーは凄まじかった。ただし、それを支えた健康法は、人それぞれのくふうがあったようだ。
慶應義塾の創設者・福沢諭吉は著書「学問のすゝめ」で、英語の「health」を「健康」と和訳し、「健康」という概念を一般に紹介。そして積極的に運動を行って、病気にかからない体作りを提唱したのだ。
「彼は朝の散歩と米搗(つ)きを欠かしませんでした」(植田氏)
朝の散歩と中津藩士時代以来の居合抜きで体を鍛えたのだ。66歳で没しているが、亡くなる前まで激しい運動を続けていた。
一方、早稲田大学の創始者である大隈重信も、独自の健康論を展開していた。「人間は生理学的に125歳まで生きられる」と唱え、早寝早起きをし、激しい運動は避けて「ストレスをため込まない生活」を続けた。
76歳で第2次大隈内閣を組閣した際のインタビューでは、こう豪語している。
「しゃくに障る時は風呂に入る。当世の人のようにせっけんを用いないで、昔風に大袋にぬかを入れてゴシゴシ体を摩擦すると、自然にかんしゃくがやわらいでくる」
これが、亡くなる83歳まで“現役”を貫き通した秘訣だったようだ。健康面での早慶戦は動の慶應、静の早稲田といったところか。
ところで、永山氏が語ったように、セックスと健康は切り離せない。好色こそがエネルギー、健康の源と豪語していたのは、初代総理大臣・伊藤博文である。68歳でハルピン駅にて暗殺されるまで、まさに“英雄色を好む”人生だった。
女が掃いて捨てるほどいたため「ほうき」というあだ名がついたほど。性科学を研究、性の歴史にも詳しいセックスコンサルタント・秋好憲一理学博士が解説する。
「彼は次々と芸者に手をつけ、しかも自宅に連れ帰る。なんせ帰宅途中の馬車の中でもコトに及んだというから、その絶倫ぶりがうかがえます。中には13歳の芸者もいたというし、彼が40度の高熱を出した時にも、両側に芸者2人をはべらせたという豪者でした」
その2人の芸者と3P乱交に及んだとされるから、驚きである。
“好色健康法”なら勝海舟も負けてはいない。76歳で亡くなるまで、パワーの源は女性だった。33歳の時、江戸に妻子を残して海軍伝習のため長崎へ赴任している。この間に愛人ができて子供も授かっているが、愛人はこればかりではない。住み込みのお手伝いとの間にも子供ができ、妻と一緒に生活をするという破天荒な私生活を送った。生涯に少なくとも5人の愛人に計9人の子供を産ませている。
さて、明治の偉人で健康について語るなら“元勲”山県有朋に尽きる。彼こそ元祖健康オタクだった。
「若い頃は大酒豪でしたが、青年期にリウマチを患い、日清戦争時、第1軍司令官で赴いた戦地では、胃腸を患って生死をさまよった。そんな病歴からか、江戸城奥典医だった松本順が『海水浴健康法』を唱えると大磯に別荘を建てて、風呂に海水を入れて入ったんです。塩水は皮膚を丈夫に鍛え、内臓の代謝もよくする。山県はタライに塩の湯を張って腰までつかり、さらに頭から毛布をかぶって汗をかき、十分に発汗したところで就寝するという独自の半身浴を考案、実践していたんです」(笹川氏)
他にもさまざまな健康ルールを課して毎日こなし、84歳まで生涯現役を貫いたのだ。