快音を残した打球はライナー性の当たりとなってバックスクリーンへと伸びていった。特大の同点2ランとなり、試合は2‐2の振り出しに戻る──。
1998年第80回夏の選手権記念大会3回戦の浜田(島根)対帝京(東東京)戦の8回表のことである。殊勲打を打ったのは帝京の3番・主将で、のちに北海道日本ハムなどで活躍した森本稀哲。逆に痛恨の一打を浴びた投手が浜田の左腕エースで、現在も福岡ソフトバンクでプレーしている和田毅。今から思えば“松坂世代”を代表する投手と打者の対決でもあった。
そしてこの一打で甲子園につめかけた大観衆の大半は帝京の勝ちを確信したに違いない。それはそうだろう。何しろ帝京は激戦区の東東京代表校で、この3年前の夏の甲子園優勝校でもある。対する浜田は地方の進学校。文武両道の高校生らしいチームといえば聞こえはいいが、戦力的には天と地の差があったからだ。それでも浜田はエース・和田の力投で初戦となる2回戦の新発田農(新潟)との試合を5‐2で制し、この3回戦に挑むこととなったのである。
この帝京との一戦。和田は2回表にみずからのワイルドピッチで2死三塁のピンチを招いてしまう。だが、勝つためには帝京の強力打線相手に絶対に先制点を与えたくない場面で三振を奪い、序盤を無失点で切り抜ける。すると味方打線が4回裏にヒットとエラーで一、二塁と先制のチャンス到来。ここでなんと帝京の先発・清水芳政が二塁へのけん制を悪送球。これをバックアップしようとしたセンター・坂本徳臣も後逸してしまい、ボールがフェンスまで達する間に2者生還。思わぬ形でもらったこの2点を和田がしっかりと守っていく。
しかし、試合が進むにつれて“強豪・帝京”のプレッシャーがのしかかっていく。7回表、無死から帝京の5番・望月崇史にセンターへ弾き返されるとバントを決められ、2回以降、久しぶりにピンチを背負うことに。この場面は強気のピッチングで後続を三振、二ゴロで切り抜け、得点を与えなかったが、続く8回だった。先頭打者に四球を与えてしまったのだ。疲れがピークに達していた。この場面で打席に入った森本にこの試合の110球目、渾身の直球を痛打されてしまう。
それでもその裏、ここまでの和田の好投に打線がようやく応える。帝京の2番手・安部宏嗣を攻め、2安打と四球で1死満塁と勝ち越しのチャンスを作ると、5番・鍛冶畑裕昭の押し出しの死球で執念の勝ち越し点を奪ったのである。あとはこの1点を和田が守るだけだった。帝京打線に最後までひるむことなく立ち向かう。最後の打者・比佐康行の打球が力なくサード・山岡直哉の前に転がり、一塁へ転送された瞬間にようやくの笑顔。そして左手を突き上げ、勝利のガッツポーズ。強力打線相手に被安打5。夏の甲子園では浜田を初の、そして島根県勢としては10年ぶりの8強に導く渾身の力投であった。
実はこの1年前の夏、和田は2年生エースとして甲子園の土を踏んでいた。だが初戦の秋田商戦で9回まで2点リードしながら突如崩れて、最後はみずからの押し出し四球で悪夢の逆転サヨナラ負けを喫してしまう。その苦い経験が和田を成長させていたのである。9回2アウトになっても、「守りに入るな」と何度もつぶやいていた。その強気の姿勢が呼び込んだ勝利。1年前に自分を泣かせた押し出し四球が、今度は敵の押し出し死球で笑うというのも野球の神様の粋なはからいというものか…。
この翌日に行われた準々決勝で浜田は延長10回の激闘の末、豊田大谷(東愛知)の前に3‐4で惜敗。その後、和田は早大へ進学し、さらに実力をつけ東京六大学最多となる476奪三振をマーク。福岡ダイエーでは新人王、日本シリーズ胴上げ投手、そしてWBC代表、メジャー入り、福岡ソフトバンク復帰…と、日本を代表する左腕となったのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=