2005年の第87回夏の選手権は史上6校目となる夏連覇を果たした駒大苫小牧(南北海道)の優勝で幕を閉じたが、大会前の予想ではあくまで有力校の一つという扱いだった。
開幕前に優勝候補の一角として名が挙がっていたチームは大阪桐蔭、日大三(西東京)、沖縄尚学、愛工大名電(愛知)など。中でも愛工大名電はこの年の春の選抜王者で、各選手が1打席に一度はバントの構えをするなど5試合で26犠打をマークし、徹底したバント戦法によって頂点をつかんだ。
そのバント多用の機動力野球に、2年生ながら4番に座る超高校級スラッガー・堂上直倫(中日)を筆頭に長打力もアップ。史上6校目となる春夏連覇を狙っていた。そんな春の王者と初戦でぶつかったのが長崎県代表の清峰である。
清峰といえば、この翌年の選抜で準V、09年の選抜ではエース・今村猛(広島)を擁して県勢悲願の甲子園初優勝を成し遂げることとなるのだが、この時点では単なる無名の県立初出場校。名電の圧倒的有利は動かないと思われていた。だが、試合は予想に反し、常に清峰が先手を取る展開に。まず0-0で迎えた5回表、2死無走者から名電のエース・斉賀洋平が突如乱れ、3連続四球を与えてしまい、満塁に。ここで清峰は3番・大石剛志の打球は痛烈な当たりとなってショートへ。これを名電の柴田亮輔(元・オリックスなど)が捕球したように見えたが、二塁送球ができない。なんとボールがユニフォームの中に入って取り出せなかったのだ。
清峰にとっては幸運なアクシデントで待望の1点先取。が、その裏、名電もすぐに反撃。1死後に8番・井坂の死球を機に1死一、三塁とすると得意のバント攻撃。無警戒だった清峰バッテリーはスクイズを決められてしまい、追いつかれてしまった。それでも同点とされた直後の6回表、清峰は先頭の5番・木原宏輔の内野安打から1死二、三塁のチャンスを作ると、8番・野元淳一は三振するも振り逃げを狙った。この時に名電の捕手・井坂遼輔が一塁に送球する間に三塁走者の木原が本塁を突く好走塁で1点をもぎ取ったのである。
それでも7回裏に名電は先頭の6番・斉賀の四球から犠打、四球、犠打、敬遠で2死満塁とすると、2番・柴田の当たりは緩い一、二塁間へのゴロ。清峰は一塁手・大石将がダッシュするも実らず、適時内野安打となり2-2の同点に。
こうして試合は7回を終わって互いに譲らない好勝負となっていた。まさに戦前の予想を大きく覆す清峰の健闘。その要因となっていたのは清水央彦コーチ(当時)が名電各打者のバントの方向を割り出し、徹底した対策をしていたことだった。エースの古川秀一(元・オリックス)はフィールディングが不得意なため、バント処理は一、三塁手に任せる。これによりバント安打をゼロ。またミスがないだけでなくよけいな体力の消耗も防ぐことができたのだ。逆に名電は得意のバントが効果的に決まらず、波に乗れなかった。試合は延長戦に突入したが、10回裏の2死二、三塁、12回裏の2死一、三塁のチャンスも得意のバントでの揺さぶりが清峰守備陣の堅守で阻まれてしまった。さらに清峰のデータ分析は名電の4番・堂上対策も導き出していた。その結果は、「彼は別格。シングルヒットならOK」というもの。堂上は3安打を放ち、貫禄を見せつけたがすべて単打に終わる。しかも走者を得点機に置いて打席に立つことができなかったのだった。
そして試合は延長13回に決着する。決めたのは清峰のエース・古川のバット。この回先頭の5番・木原の中前打を足掛かりに作った2死二、三塁のチャンスで決勝の2点適時中前打を放ち、熱戦に決着をつけたのである。こうして死闘の末、春の覇者・愛工大名電から金星を挙げた清峰の名は全国の高校野球ファンの間に轟くこととなる。この後、清峰は3回戦で優勝候補の大阪桐蔭に1-4で敗退してしまうが、翌年春の選抜準優勝へつながる足掛かりをつかんで甲子園を去って行ったのであった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=