昭和の終わりに忽然と現れ、たちまちベストセラー作家となった。その経歴は安藤組組員や日航のパーサーなど、信じられないほど多彩であった──。週刊アサヒ芸能とも縁が深かった安部譲二は82年の生涯を静かに終えたが、無頼派の作家が後世に残した男が生きるための直言をいま一度かみしめてみたい。
三島由紀夫が66年に発表し、田宮二郎主演で映画化もされた「複雑な彼」のモデルは安部譲二である。ヤクザと日航パーサーの二刀流をこなす安部に三島が注目し、エンターテインメント小説に仕立てあげた。
安部の本名は直也だが、本作の「宮城譲二」からペンネームとした、いわば大恩あるモデル小説だった。だが、週刊アサヒ芸能には厳しい口調でこう言い放っている。
「金目当てで三島が編集者に代筆させた“ロクでもない代物”だと思ってる」
安部節全開である。そんな安部は、名門・麻布中学や慶應義塾高校に通った秀才ながら、中学から安藤昇率いる東興業(通称・安藤組)に出入りする。
週刊アサヒ芸能では87年3月12日号から対談連載のホストとして、約4年半にわたって活躍。87年11月5日号では、ついに師であった安藤昇が登場する。当時の対談編集者いわく「出迎えも見送りも直立不動で、いつになく緊張の面持ち」だったという。
では、その一部を抜粋してみよう。
安部 昔だったら、とても考えられないですよ。オヤジさんに口をきいてもらえるなんて。
安藤 そうでもないだろ。スチュワーデス連れて歩いてたよな。いい女ばっかりで。「少しは回せ」って言ってたよ(笑)。
安部 いつだったか、オヤジさんが銀座のバーで酔っぱらったホステスに「私のはじめての男は安部直也(本名)だ。どうしてくれる!」って絡まれたことがおありになりましたよね。
安藤 よく覚えてるな(笑)。誰かが言ってたぞ、あいつは人が忘れたことまで覚えてるって。
学生生活と渡世の身を両立させながら、61年には日本航空に客室乗務員として入社。以降も地下ボクサー、レストラン経営、キックボクシング解説者、競馬予想屋などを経験する。
また、実現こそしなかったが、あの力道山に「安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスラーになれ」とスカウトされたこともあったとか。
こうした格闘技愛好家の夢がかなったのが90年2月15日号、対談のゲストに不敗のマイク・タイソンを招いたことである。タイソンは東京ドームでのヘビー級タイトルマッチで来日し、その合間を縫っての収録であった。担当編集が述懐する。
「タイソンから与えられた時間はわずかに15分。それでも安部さんが英語に堪能だったのと、ボクシング知識が高かったおかげで5ページが成立した」
この来日の2年前、安部はニューヨークへタイソンを訪ねたことがある。その記憶がタイソンを饒舌にさせたのだ。
タイソン あんたが会いに来るって聞いて、すぐに「あのクレージーガイか」って思った(笑)。
安部 グ、グ、グ。
タイソン きょうホテルの部屋を出る時も、早く会いたかったもんでズボンをはき忘れてくるところだったんだから(笑)。
安部 オレがホモだってことを知らないのかい?
タイソン うそだろ? 女ともちゃんと、やるべきことはやってんだろ?
みごとな呼吸である。