江戸時代になり、江戸に幕府が置かれることで、そこには巨大都市が生み出されていくが、その江戸の町からは、富士山の姿がよく見えた。そこが京都とは違うところである。江戸時代に富士山に対する信仰が盛んになるのも、そうしたことが影響していた。今の東京でも、「富士見」の地名が多く残されており、いかに富士山が江戸庶民にとって身近なものだったかがわかる。
ただ、姿は見えても、富士山は遠い。途中には険しい箱根山もある。
そこで、江戸では、多くの「富士塚」が築かれていく。富士塚は、既存の丘や古墳を利用したものもあるが、富士山から溶岩をもってきて、それで築いたものもあった。富士塚は、富士山を望める場所に築かれ、そこに登ることで、富士山への代参としたのである。
富士塚は、江戸以外の周辺地域にもあり、江戸時代から明治時代にかけて盛んに築かれた。もちろん、今回の世界文化遺産には、この富士塚は含まれないが、その趣旨からすれば、含まれてもおかしくはない。そうなれば、都内にも世界文化遺産が至るところに見られることになる。どうせなら、富士塚も文化遺産のなかに含めて欲しかった気がする。
もう一つ、富士山麓には、新宗教の団体がその聖地を求めることが多い。創価学会がかつて信奉していた日蓮正宗の総本山、大石寺は富士山を間近に仰ぎ見る富士宮市にある。今はないが、戦前には日蓮主義の国柱会があり、最近ではオウム真理教や法の華三法行が本部を構えていた。
富士山はやはり特別なパワースポットと言える。そのパワーが、今回、世界文化遺産へと富士山を押し上げたのである。