宮沢りえのヘア写真集をきっかけに、90年代は空前の「脱ぎバブル」が訪れた。もちろん、元アイドルグループの面々も、たびたび世を騒がせた。その背後には、名うての「脱がせ屋」がいたのだ。
ベテラン編集者の橘貴子氏はグラビア誌を舞台に、数々のスクープをもたらした。その先兵が「おニャン子クラブ」の内海和子だ。脱いだのは解散から5年後、92年のことだった。橘氏によれば、彼女は翌年に結婚が決まっていて、その前に「若さの記念として」脱いだ写真を残したいと名乗りを上げたという。
会員番号13番の創立メンバーであり、ソロデビューも飾った大物だ。女子高生ぞろいの「おニャン子」にあって、加入時に女子大生ではあったが、独特の色香が番組に華を添えていた。
「当時、雑誌業界のグラビア予算は潤沢でしたから、巨匠の野村誠一先生を連れて、彼女の希望であるアリゾナの砂漠で撮影しました。さほどグラマーなタイプではなかったけれど、念願のロケ地ということで脱ぎっぷりはよく、とてもスムーズな現場でした」(橘氏)
掲載したグラビア誌は、破格の売り上げを記録。やはり「元おニャン子」というネームバリューは絶大なものがあった。
84年のデビューに30億円をかけた「セイントフォー」は、残念ながら期待ほどは売れなかった。ただし、4人のメンバーのうち3人が解散後に脱ぎ姿を披露するという「ありがたい副産物」を残す。
「特に板谷祐三子の反響は大きかったです」
橘氏が目を細めて懐かしむ。板谷はグループ時代、メガネをかけていることが話題になるくらいの目立たない存在だった。ところが、橘氏によると、メガネを外して“セミ”ではあったが、脱いだ姿を見せると、
「大変な反響でした。実はとても美人でしたし、体のボリュームも驚くほどでした」(橘氏)
この写真をきっかけに、板谷はVシネやヘア写真集と、脱ぎまくる売れっ子になっていく。板谷に刺激されて、メンバーの岩間沙織と濱田のり子も脱ぎ姿を披露し、それぞれが大きな話題に。
松本伊代のバックダンサーから派生した「麻生真美子とキャプテン」の麻生真美子=のちに真宮子に改名=は、も脱いで活躍した。
「何度かグラビアをやり、インパクトがあったので93年6月には写真集をプロデュースしました。当時のタレントとしては、醸し出すフェロモンがケタ違いでしたね。あの時代は写真集の売り上げに応じて印税を支払っていましたが、彼女もかなりの額になったはずです」
その後、名前を「田島みわ」に変え、自民党公認の政治家に転身したが、今なお当選歴はない。
最後に、橘氏が「変わったケース」として口にしたのが…。
「名前は伏せますが、あるアイドルユニットでリーダーを務めた子の写真集を出すことになったんです」と前置きした橘氏によれば、その本人は「こんな感じにやりたい」と海外の脱ぎ姿の写真集を持ってきたのだが、
「いざハワイで撮影が始まると『ニップレスはどこですか?』と。カメラマンもスタイリストも全員で絶句してしまいました」(橘氏)
黄金期は再びやってくるのか。