藤圭子にとって初代のチーフマネジャーである川岸咨鴻〈ことひろ〉は、半世紀近い芸能稼業で2回だけ頭を丸めたことがある。2度目はアイドル・木之内みどりが「恋の逃避行」で仕事に穴を空けたことへの詫びとして。その前に初めて丸めたのは、71年大みそかのこと。圭子の新曲の「京都から博多まで」(72年1月)のヒットを祈願してのことだった。
「当時、玉置宏さんの司会で日曜の昼にやっていた『ロッテ歌のアルバム』(TBS)ね。あの番組には『今月の歌』というコーナーがあって、どうしてもそこに入れてほしかったんだ」
元日にプロデューサーを訪ね、丸めた頭で直訴する。その勢いに押されたプロデューサーは「今月の歌」を約束し、1カ月にわたって人気番組のプロモーションにつながった。
この行動には、圭子のレコード売上げが落ちていた焦りがあったと川岸は言う。
「やっぱり前川清との結婚と離婚はダメージがあったよ。前川の事務所の和久井保代表が『今の時代で言えばジャニーズとAKB48の結婚だろ』と言っていたけど、そのくらい藤圭子はアイドルだったんだな」
いくらかレコード売上げに陰りが見えたとはいえ、前述のように営業などを含めた人気は変わらない。川岸は圭子とともにヘリコプターで営業先を移動したことも何度かあった。
さらに所属の「藤プロ(後に澤ノ井音楽事務所に改称)」は、代表の石坂が作詞や作曲を手がけ、楽曲の原盤権も持っていたことから金回りも良かった。
「石坂さんは夜になると事務所の金庫を開け、歌舞伎町に繰り出す。そこでみすぼらしい姿の女の人を見ると、必ず何万円かつかませるんだ。あのクセさえなかったら、もっと財産が残ったんだろうけど」
川岸は73年6月まで在籍し、現在の浅井企画に移っている。芸能界では事務所とタレントがギャラの配分で揉めることが多いが、石坂と圭子にはこうしたトラブルはなかった。
「俺がいる間に圭子は広尾のマンションに引っ越せた。フカフカのじゅうたんがあって、貧しい暮らしだった彼女には夢のような世界だったんじゃないの」
さらに世田谷でアパートを経営するなど、人気に見合った金額は渡されていたという。
ただし、その大金は圭子の家族を離散に追い込んでゆく。圭子の実父で元浪曲師の阿部壮は、若い女と駆け落ちしてしまい母親と離婚。さらに「金の無心」に走る日々だったと川岸は言う。
「俺も事務所でオヤジとは金のことで何度もやり合った。もっとよこせとか、そんな感じだったよ。彼女が照實さんと結婚した後も、金をせびりに行っていたらしいから」
大ヒットを放って豊かになったゆえの家族崩壊──それはやがて、さらに天文学的な数字となって藤圭子自身が巻き起こす「悲劇の連鎖」に連なった。