歌手として稀代の才能を惜しむ声は、今も鳴りやまない。ただ、どれだけアンコールの拍手があろうとも、藤圭子という歌手がこの世に蘇ることはない。いや、その死を迎える前から、みずから「歌手・藤圭子」を葬り去っていた。それは「昭和歌謡」という呪縛から解放されるための儀式であったのか──。
デビュー直後の藤圭子に「怨歌」と名づけた作家・五木寛之は、その分析の中で、こんな“予言”もしている。
〈しかし、この歌い手が、こういった歌を歌えるのは、たった今この数カ月ではないか、という不吉な予感があった。これは下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬の閃光であって、芸としてくり返し再生産し得るものではないからだ〉
この連載で何度か綴ってきたように、69年にデビューした藤圭子は、恩師の石坂まさをによって様々な「フィクション」を身にまとわされた。スタートこそ成功したが、結果的には五木が予言したように、歌謡史における衝撃は“瞬間風速”で終わってしまう。
それでも79年に最初の引退をするまで10年間を歌手として過ごす。RCAレコードで担当ディレクターだった榎本襄は、決して条件が整っていたわけではないと回想する。
「彼女のアルバムは3作で42週連続1位の記録的な売上げだったけど、レコーディングはいつもギリギリ。1時間で5曲を録るなんて信じられないスケジュールだったよ」
それでも、圭子の驚異的な音感があればこそ過密日程も乗り越えた。
やがてセールスがみるみる低下し、74年にのどのポリープを手術したことで歌手としての自信を失ってゆく。
77年、「紅白歌合戦」に落ちたことは、1つの区切りだったと榎本は言う。
「紅白という形そのものにこだわっていたわけじゃない。ただ、短期間で歌謡界の頂点に立った人が、落ちてしまったことで自分の見方が軽んじられるんじゃないかというプライドの問題だったね」
その2年後に引退した圭子は、ハワイの滞在を経てニューヨークに飛んでいる。ハワイでも元歌手の関口愛子を頼っているが、ニューヨークでは作家の田家正子が面倒を見ている。
「日本人らしい女性がアパートを探している。それが藤圭子だった。結局、同じアパートで3カ月、一緒だった」
1人の女に戻った「本名・阿部純子」は、いつも同じことをつぶやいた。
「マスコミが自分を作った。藤圭子は終わった‥‥」
やがて夫となる宇多田照實と知り合い、帰国の途につくとともにカムバックを果たす。そこには藤圭子の名はなく、一時的ではあるが「藤圭似子」と改名。
榎本は、最初の芸名がどう生まれたかを知っている。
「事務所のオーナーだった工藤宏さんから『藤』の字を、その妹さんの佳子さんから『圭子』の字を拝借して命名。そんな安易なネーミングだったことを、彼女はそばで見ていますから」
それでも営業的には「圭似子」は通用せず、すぐに元に戻している。
やがて83年に長女が誕生すると、その成長にすべてを賭けた「もう1つの人生」が始まった。