70年の紅白初出場は、実は「いきなり大トリ」との声もあった。シングルもアルバムもトップの売上げを独走した圭子だったが、さすがに女王の美空ひばりからは奪えなかった。
ただしこの年、ヒット曲のないひばりの大トリには「司会との二役は初」という話題性が必要だったことは否めない。
翌71年は結婚したばかりの前川清(内山田洋とクール・ファイブ)との「史上初の夫婦対決」が目玉となるはずだった。紅白研究の第一人者で、圭子のショーの構成を手がけたこともある合田道人が解説する。
「本番直前に前川が急病で倒れ、クール・ファイブは辞退。代わりに藤圭子が自分の持ち歌の『みちのく小唄』の後、クール・ファイブが歌うはずだった『港の別れ唄』を、残りのメンバーをバックコーラスにしてメドレーで歌った」
翌72年は離婚の影響か、圭子は選ばれたものの、クール・ファイブは「この愛に生きて」や「そして、神戸」の大ヒットがありながら落選となっている。
そして73年──、
「紅白に落ちたショックか、髪をばっさり切ったこともあったね。その翌年にはポリープの手術をするほどノドも荒れていた」
初代のチーフマネジャーだった川岸咨鴻〈ことひろ〉が回想する。74年の手術は成功し、本人もカムバックに意欲的だった。マスコミの見方も好意的だったが、それでも届かなかった。
〈自信の藤圭子が紅白にふられて気絶して‥‥〉
〈紅白落選に大ショック、藤圭子が突然発病ダウン〉
こうした見出しがいくつも並んだ。そのほとんどは「自殺未遂」と報じるものであった。
さらに“紅白エレジー”は続く。75年には2年のブランクを経て復帰したものの、背景には「大物政治家の圧力があった」とささやかれる始末。76年も連続で出場したが、これが生涯最後になった。
「あれほど手がつけられない圭子は初めて見た。それくらい荒れていた」
担当ディレクターの榎本襄が回想する。77年に落選した直後のことである。すでに石坂まさをの元を離れ、別の事務所に移籍していたが、梅津肇は圭子の本音を聞いた。
「もう1度、紅白に選ばれたい。そしてこちらから辞退してやるの」
それは紅白に対する「恩讐」であったのか‥‥。
最後の落選から2年後、圭子は引退を発表し、アメリカへ旅立っていく。もし「6度目の出場」がかなえば、本当に辞退したのであろうか。あるいは引退(ただし、2年後に復帰)も決意せずにすんだのではなかったか。
99年に娘・宇多田ヒカルの人気が社会現象となると、もちろん「紅白」も全力で説得に乗り出す。結局は父・照實の意向もあり、出場には至っていないが、
「藤圭子さんも同時に出てもらってかまいません」
そんな“説得”に、果たして藤圭子は何を思ったのであろうか──。