当時の歌謡界は「興行師」と呼ばれる者たちが全国にいた。客を呼べる人気歌手を呼び、近隣の地域を含めて何カ所かの興行が組めるようにスケジュールを調整する。
藤圭子のように10代であっても、興行が打てれば「先生」とか「看板」と呼ばれる世界だった。
「ただ、こうした呼び名を彼女はすごく嫌っていた。地方に行くと興行師が高級料亭で接待してくれるけど、それよりも食事は旅館でパパッと済ませればいいって子でしたから」
同い年だった梅津は偶然、成人の日を一緒に迎えた。東京・八王子のサマーランドでショーを開いていたら、隣りの会場で地元の成人式が行われている。
「俺たちもハタチだよな」
その言葉に圭子も目を輝かせ、地元の若者たちに交じって式典を受けたという。歌のイメージから寡黙で人間嫌いのように思われていたが、時には茶目っ気を見せることもあったのだ。
前川清との結婚が迫った71年、大人気だった「8時だヨ!全員集合」(TBS)に出演して、いかりや長介と他愛ないコントも披露している。
「藤くん、ここにある川は前か後ろかどっち?」
「う~ん、前川っ!」
「うわ~いっ!」
そんな牧歌的なノリもまた、昭和ならではである。
さて圭子がデビューした69年、歌謡界は「大人びた女性歌手」が大流行であった。同期デビューに由紀さおりとちあきなおみがおり、他にも奥村チヨ、小川知子、辺見マリ、いしだあゆみらがひしめいている。
歌の印象も違い、年齢的にも若かったが、先輩たちからは「圭子ちゃん、圭子ちゃん」と可愛がられた。森進一、布施明、ザ・ピーナッツ、青江三奈は特に目をかけてくれ、梅津のような新人マネジャーも現場でイヤな思いをすることがなかった。
そして「演歌でありながらアイドル」という前例のない現象を作った藤圭子は、双方の忙しさが襲ってくる。演歌歌手の特権である地方興行やキャバレーの営業があり、アイドルの武器だった雑誌グラビアも兼ねるといったように──。
「忙しくても音を上げない子だったけど、初めてゴネたのが映画の撮影。これまでは1シーンだけ歌う特別出演のみだったのが、完全な自伝映画となれば出ずっぱりですから」
梅津が危惧したのは「藤圭子 わが歌のある限り」(71年、松竹)だった。常磐ハワイアンセンター(当時)をロケ地に、連日、明け方まで続く撮影に小さな体が悲鳴を上げた。それでも投げ出さなかったのは、主役が抜けられない「芸能界の掟」に沿ってのことだ。
一方で、キャバレー営業で見せる圭子の気配りに、梅津は何度も感心させられた。
「月世界、ホノルル、ベラミといった大箱のキャバレーで何日間かの興行が入る。その初日には、まず『社交さん』と呼ばれたホステスたちに挨拶に行くんです。1人1人に『今日からお世話になります藤圭子です』と言って頭を下げる」
初日の幕が開くと、客よりも先にホステスたちが大きな拍手をしてくれた。