「ちょっと、ウチの娘がマライア・キャリーよりもすごいんだから!」
宇多田ヒカルが9歳になり、家族3人で結成した「U3」のアルバムを発売した頃、圭子は会う人ごとにアピールした。作曲家・平尾昌晃は、あまりの熱意に驚いた記憶がある。
かつて圭子のマネジャーだった成田忠幸は、その姿に石坂まさをを重ねた。
「7社から断られた末にようやくデビューしたのが藤圭子。まだ幼いということでヒカルちゃんも相手にされなかったけど、あの必死な売り込みは同じだね」
榎本はデモテープを聴いた。娘のボーカルのバックに圭子のコーラスが入っているが、どこかしら違和感を覚えた。
「歌はラテンロックだけど、彼女のコーラスに微妙なビブラートがついている。それだと民謡歌手がバックにいるみたいだって指摘したんですよ」
こうした試行錯誤の日々を経て、98年にメジャーデビューした宇多田ヒカルは、たちまち時代の寵児となる。日本の芸能史上、母娘でアルバムの1位記録を獲得したのは唯一である。いや、数字以上に70年代と90年代の双方で時代に衝撃を与えたという事実がとてつもないことだ。
やがて夫・照實の意向もあり、圭子は完全に表舞台から消えてゆく──。
「私を藤圭子とは絶対に呼ばないでちょうだい!」
スポーツニッポンの芸能デスクである阿部公輔は、初対面でそう叱責された。スポニチ紙は代々、文化社会部に「圭子番」というものが存在する。初代の小西良太郎は石坂の過剰なキャンペーンに紙面を割いた“良きパートナー”であったが、その小西の指名で阿部が継いだのは、2000年のことだった。
「記者の身からすれば『圭子さん』と呼ぶしかないが、それを許さない。しかたなく本名の『純子さん』と呼ぶ。あれだけ知名度があっても、芸名への愛着はみじんも感じられなかった」
初対面の時点で圭子は、かなり視力が低下していた。それは母親からの遺伝だと言い、娘に「光」と名づけたのも、それを避けたい意味もあった。
当時はヒカルのステージママとしてのポジションだったが、思った以上に細身で、足元がふらつくことも多いと感じた。
やがて阿部は、事あるごとに圭子から相談を持ちかけられる。それは夫のことが大半であったが、同時に、精神状態が急変する場面も何度となく見た。
「待ち合わせ場所にはこだわらず、マクドナルドとかバーガーキングでいいと言う。ただし、いつも『今すぐ来て!』でしたから。お店では早く座ってもらおうと席を探すと『何やってんの!』と店中に聞こえる声で怒鳴られる。これは一緒に住んでいる身内は大変だろうなと思いました」
圭子の死後に照實とヒカルが発表したコメントは、ともに圭子の変貌を吐露している。夫は〈光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象〉と言い、娘は〈幼い頃から母の病気が進行していくのを見ていました〉と明かす。
夫婦が「7回の離婚」と報じられたが、戸籍に表れなかったものを含めれば「13回」という尋常でない数を阿部は聞いた。そして幼い身で両親の特殊な状況にはさまれたヒカルの胸中を思いやった‥‥。