06年3月3日、ニューヨークのJFK国際空港にて、多額の現金を没収されるという事件が起きた。これが久々に世に出た藤圭子の名前だったが、その金額が約5000万円であったことも人々を驚かせる。
ヒカルの莫大な印税の一部が母親に渡ったとはいえ、海外で巨額の現金を持ち歩く──スポニチの阿部公輔は、騒動の直後に圭子から話を聞いている。
「純子さんにすれば、お金を持っていても『やましい金』と思われるし、そもそも銀行をまったく信用していない。だから自分で持ち歩くということなんだけど、それは世間の常識と違って受け入れられなかった」
圭子は阿部だけでなく、テレビ局やヒカルのレコード会社にも“急襲”の形で連絡を入れ、釈明の機会を求める。これにいくつかのテレビが食いつき、誰もが目を疑ったインタビュー映像となった。イメージと違う饒舌なしゃべりや、目が飛んでいるようにも見える表情は、皮肉にも「生前最後の映像」となってしまう。
この一件が決定打となり、夫婦は07年に7度目の離婚。2度と復縁することはなく、娘のヒカルとも疎遠になった。
阿部は、圭子が宇多田家からつまはじきとなった後も、呼び出しを食らっては熱弁を聞かされる。
「二言目には『娘は天才だから』ですよ。デビュー前の売り込みの時期ではなく、大ブレイクした後も変わらなかった。ただ、そばにいない娘に向かってのアドバイスを忘れない。今のままではダメって、いつも口にしていました」
阿部が舌を巻いたのは、音楽に対する膨大な知識である。もともと聡明な人だとは思っていたが、アメリカのプロデューサーや一流ミュージシャンの名前が次々と出てくる。ドラムやベースは誰々がヒカルに合っているというように──。
作詞作曲も手がけるクリエーターのヒカルだが、母に対する「ボーカリストとしての尊敬」は疎遠後も変わらなかった。在りし日の母の歌唱をユーチューブで楽しんでいると、自身のツイッターにも綴っている。
一方、圭子はデビュー当時のキャッチフレーズだった〈怨念〉を、何度となく言葉にしている。
「この世で一番、憎んでいるのは母親と石坂まさを」
そして、こうも言っている。
「阿部家のお墓には絶対に入りたくない」
圭子が母親と縁を切り、他界した際も顔を出さなかったほど徹底していた。
ある日、圭子は阿部にポツンと告げている。最後に阿部が圭子と会ったのは3年前で、ヒカルと音信不通になっていた時期だ。
「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」
母の没後にヒカルは「遺言書」があったことを明言した。その内容については明かされず、存在すらも取り沙汰されたが、晩年の圭子の言動からはなかったとは言い難い。
昭和の時代に咲いた藤圭子というあだ花は、自身が望んだように葬儀も行われず、ひっそりと役目を終えた──。