かわいらしいエクボとセンスのよい楽曲を武器に、80年代半ばのアイドル界で際立った八木さおり(50)が、当時を回顧する。
デビューのきっかけは85年、前年に斉藤由貴を輩出した「ミスマガジン」への応募だった。
「グランプリは撮影者がカメラをもらえるというので、兄が『お前、出してみる?』とノリノリでした」
兄妹は軽い気持ちで、近所の公園で撮影。真っ黒に日焼けしたショートカットの15歳少女に、原石のにおいを嗅ぎ取った編集部から、後日「わかりやすい写真を送ってほしい」と連絡が入った。
「誌面投票の末、グランプリに選んでいただいて。まったくの素人で、1年間は編集部預かり。撮影の日に母と一緒に現地に行くという生活をしていました」
高校2年でようやく上京すると、アイドルの園こと堀越学園に転入。
「クラスメイトは、山瀬まみちゃんや少女隊のミホちゃんとレイコちゃん。後輩に西村知美ちゃんがいて、高3の時に森高千里ちゃんが入ってきました。よく森口博子さんがネタにしていますが『5時間目まで残っているのは恥ずかしい』ってまさにそれ。ホームルームだけの子は『今日はすぐ仕事だから』って勝ち誇った感じで早退したり(笑)」
八木自身も歌に演技に大忙し。87年には「ひみつのアッコちゃん 伊豆の踊子物語」(フジテレビ系)で民放ドラマの初主演を果たす。
「共演者は本木雅弘さん。放映後、事務所に本木さんのファンからカミソリが届き『本当にあるんだ!』とゾッとしました」
特に多忙を極めたのは、高3の1年間。映画「パンダ物語」(88年、東宝)撮影中に監督が交代。一から撮り直ししたため撮影期間が延長するなど、トラブルに見舞われた。
「いろいろ大変でした。覚えているのが、中国・四川省の山奥でロケをした時のトイレ。ついたての向こうの地面の穴でするんですが、現地の人は井戸端会議をしながら用を足す。私は人がいるのに気が引けて、誰もいない真っ暗な早朝5時半に行っていました(笑)」
映画やドラマの出演本数を重ねるうちに目覚めたのは、演技の楽しさ。アイドルでは自分の色を出すことが難しいという悩みを断ち切るように、ショートヘアをロングにし、名前を漢字(八木小織)に変えて女優業に邁進した。
そして94年、自身25歳の誕生日にヘアヌード写真集「春花秋冬」(集英社)を出版。泉谷しげるとキスをする電車の中づり広告が話題になった。
「当時はヘアヌード全盛期で、いつか私にも話が来るのではと思い、『言われてやるくらいなら先に作っちゃえ』って、写真家の大村克巳さんと作りました。事務所に報告したのは撮影後で『まさか、さおりがこんなことをやるとは』と驚いていましたね」
現在は、12年に旗揚げした劇団「丸福ボンバーズ」の一員として年間1~2本の舞台を踏む。11月には舞台とトークショーを生配信する「LIFE TIME LIVE」を公演予定だ。
「ずっと、私には芯がないと思っていて。旗揚げで声をかけてもらったおかげで、お芝居が確固たる芯になっています」
そう言って変わらぬかわいらしいエクボを作り、軽やかにほほえんだ。