アイドルとして高い歌唱力を誇り、モデルのようなスタイルも魅力だった伊藤智恵理(49)。今はどうしているのか。
デビュー曲「パラダイス・ウォーカー」(87年)は、オリコンチャート最高で23位。新人としては上々の数字だった。
「いや、事務所が小さかったので。大きいところだったら、もっと上に行けたと思います」
なかなかの強心臓ぶりだ。歌手になりたい一心で、憧れの岩崎宏美を育てた声楽家・松田トシのもとでレッスンを受けたのも、意志の強さを感じさせる。ただし、芸能活動においては、女優業もこなす必要があった。
「デビューもドラマのほうが先でしたし、自分の意向のままには進みません。演じるのは楽しかったけど、肩書が女優になったらイヤだなとは思ってました」
ひとつの転機となったのは、今年3月に亡くなった志村けんとの出会いだった。志村が加藤茶と組んだ「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(86~92年、TBS系)にゲスト出演したことがきっかけだ。
「メインのゲストは柏原芳恵さんで、私は新人枠。志村さんはゲストに水着を着させてコントをやりたかったけど、これを柏原さんが『絶対にできません!』と断ったんです。スタッフの人が『代わりにやってくれる?』と言うので引き受けて、それが志村さんにも加藤さんにも『この子は根性あるよ』と映ったみたいです」
続く「志村けんのだいじょうぶだぁ」(87~93年、フジ系)ではレギュラーに抜擢される。メインのポジションには石野陽子がいたが、そこで信じられない光景に遭遇した。
「石野さんが赤いベンツでスタジオ入りしたんですよ。すごいなあと思って見ていたら『志村さんに買ってもらったの』と、平然とおっしゃるんです。ああ、そうなんだと思いました。実はバラエティーのレギュラーになることは内心、なんで私がと思った時もあったけど、オトナの人たちが真剣にコントに取り組む姿には鳥肌が立ちました」
それでも歌の活動を優先させたくて22歳の時に事務所を辞め、インディーズのような形で音楽を続けた。今から思うと「辞めないほうがよかった」と反省しているという。
その後、長らく恋人関係にあった「イタリアの食品を輸入する商社の経営者」と15年に結婚。引退の身ではあったが、同じ年に「第6回国民的美魔女コンテスト」に応募した。
「仲がいい20代の女の子に『輝いている智恵理ちゃんが見たい』と言われたのがきっかけです。皆さんは水着審査にビキニで出るだろうから、私はあえてワンピースを選びました。1600人の応募者から、18人のファイナリストに選出されたんです」
さて、あらためて思う「80年代アイドル」の魅力とは?
「ほとんど全員がソロで、あれだけ世の中を楽しませた。その一員でいられたというのは誇りですね」