約3年かけて130万枚を売り上げた大ヒット曲「会いたい」。恋人の死をドラマティックに表現した歌詞が多くのリスナーの涙腺を刺激した。歌った沢田知可子(57)は「私はこの曲の管理人」と、今も大切にしている。
それは、デビュー3年目のラストチャンスだった。90年に4枚目のアルバム「I miss you」を発売し、収録曲「Live On The Turf」がJRAとのタイアップでシングルカットされることが決定。ところが、レコード会社ディレクターが、別の曲のシングルカットを、自身のクビを賭けて推した。
「それが『会いたい』でした。作曲は財津和夫さん、作詞は沢ちひろさんで、沢さんから完成した詞が届いたのはレコーディングのタイムリミット直前。読むと、私の歌手デビューのきっかけになる、叱咤激励をしてくれたあと交通事故で亡くなった憧れの先輩を想起させる内容でした。ディレクターに話すと『今は感情移入しないで、泣かないで。とにかく歌って!』と、せかされ、3テイクで録音が完成しちゃったんです」
90年6月27日に発売すると、ノンプロモーションゆえ、沢田はみずからラジオ局や全国の有線放送所を地道に回り、同曲の周知に努めた。
「すると、有線の方がリクエストのない時間帯にかけてくれたりするんですね。そういうことがポツポツあり、約3カ月後、有線の40位圏内に入り始めたんです。売れない歌手が楽曲の力だけでいくのは、普通はありえないんですよ。さらに11月下旬以降、なぜか沖縄のFMラジオ局を中心に、ブレイクし始めたんです」
きっかけは、11月22日に起きた第6次沖縄抗争による高校生射殺事件。敵対する組員に間違えられた男子高校生が、暴力団に撃たれて死亡したのだ。
「恋人の女子高生が彼を思い、地元ラジオ番組に『会いたい』をリクエストしてくださって。それからは沖縄でこの事件が報じられる際、必ずこの曲がBGMとして使われるようになり、沖縄では圧倒的な知名度を誇るようになったんです」
名曲は、沖縄からやがて全国へ東上。有線を席巻し始めると、「トゥナイト」(テレビ朝日系)の主題歌に抜擢されたことが決定打に。
そして翌秋に全日本有線放送大賞でグランプリを受賞し、年末の紅白歌合戦に初出場したあと、念願のミリオン超えを果たした。
「それから数年、『会いたい』の人として動けなくなってしまった。若かった私は悩み、レコード会社を辞めることにしたんです」
だが、業界の暗黙の掟が行く手を阻む。レコード会社から裁判を起こされ、3年間メディアから姿を消すこととなるのだ。
「当時は『二度と表舞台に出られないようにする』くらいのことを言われましたから(笑)。やっと外資系のレコード会社に移籍できたのは94年。でも、外資系ゆえの実売主義の厳しさを目の当たりにしました」
00年代初頭には事務所のリストラ、レコード会社倒産の憂き目にあい、貯金はゼロに向け加速した。転機は、04年に新潟中越地震のチャリティーコンサートに出演して「会いたい」を歌った瞬間、同曲の使命を見いだしたことだった。
「私は、これからこの曲を『鎮魂歌』として歌うべきなのだと。それが現在まで続くコンサート『歌セラピー』の原型です」
14年には作詞家の沢に裁判を起こされたが、「家族がいて、この曲を歌う使命がみなぎっていたおかげで、気持ちを強く持つことができた」と振り返る。今年は同曲から30年の節目、11月26日にニューアルバム「会縁奇縁涙曜日」を発売する。
「これからも『会いたい』を、新鮮なまま、皆様にお届けしたいですね」