野村氏のみならず、70年代の南海ホークスに在籍した選手は皆、水島氏と公私を問わず交遊を深めた。中でも麻雀は欠かせない社交の場だった。79年の日本シリーズでのこと。江夏と水島氏は、朝まで徹夜麻雀に興じていた。くしくも翌日は、日本シリーズの第7戦。水島氏は、広島に移籍し活躍していた江夏の激励のために広島入りしたものの、あいにくの土砂降りで試合は延期と思われた。ところが‥‥。
「徹夜明けの朝にはピーカンの快晴で、青ざめたそうです。絶対にしくじれない、と奮起した江夏は日本一を懸けた対近鉄戦で快投。後にあの『江夏の21球』として伝説を生んだのではないでしょうか」(スポーツライター)
水島氏が生前、ホークスと並んで入れ込んだのが、作新学院で高校球界に旋風を巻き起こした「怪物」江川卓だった。水島氏はインタビューで、
〈(高校野球に熱中しだしたのは)やはり江川からですよ。桑田がどうの、松坂がどうのいうけど、私にとってはモノが違う。(中略)江川とは電話でインタビューしてから家族ぐるみの付き合いになって、甲子園の大会中は同じ宿舎に泊まって一緒に風呂に入ったりしていた。その当時、自分の中に生まれた高校野球熱をそのまま「ドカベン」の作品にぶつけた〉(東京新聞・08年7月掲載)
ふてぶてしいまでの配球とプロ顔負けの剛腕ぶりは当時、同世代の女性ファンはもとより、「野球狂」の水島氏をも虜にしてしまったのだ。江川氏と法政大学時代にバッテリーを組み、プロ入り後は村田兆治の“恋女房”としても知られたロッテOBの袴田英利氏が振り返る。
「当時、六大学野球は、UHFアンテナで受信できるテレビ神奈川でのみ中継されていた。私たちは寮生活で東京にいるから、当然見られない。そこで、水島先生はわざわざ自宅にアンテナを立てて、UHFが映るようにしてくれた。そればかりか、まだあまり普及していなかったビデオデッキで、毎回試合を録画してくれていたんです。それを私と江川が週に1回お邪魔して、録画したビデオを応接間で見て、いろいろ研究させてもらっていました。毎回、食事もごちそうになってね。すべての面でお世話になりました」
江川氏らのために「マル秘ビデオ」まで作成していた熱い野球魂には頭が下がるばかりだ。