今季W杯で13戦中10勝と圧倒的な勝率を誇る女子スキージャンプの高梨沙羅(17)。その類いまれな才能は出身地の北海道上川町で開花した。その「才色兼備」な伝説の原点に迫る──。
「優勝して五輪に行くのはすごく自信になる。なかなか体と頭がリンクしなかったけど徐々によくなってきた」
今月2日、ソチ五輪を直前に控えたW杯第13戦。オーストリアのヒンツェンバッハ大会で優勝を飾った高梨は、軽やかな口調で本番への意気込みを語った。だが、そこには五輪初出場という気負いはまったくない。もはや女王の貫録すら漂うのだ。
今シーズン、優勝できなかった3試合でも表彰台は逃さず、高い質のジャンプを維持し続けてきた高梨。ヨーロッパ転戦が続くW杯では、1月下旬に調子を下げ、2大会連続2位。しかし、その後4連勝を飾るなど、今のところ金メダルへの死角は見つからない。アマチュアスポーツ担当記者が言う。
「高梨の出身地である北海道上川町は人口4000人の町に、20メートル級と40メートル級のジャンプ台がある“ジャンプの本場”。長野五輪スキージャンプ団体の金メダリスト・原田雅彦氏も上川町出身ですし、子供たちがジャンプを本格的にやれる環境がこれだけ整っている地区は、北海道でも珍しい。加えて、高梨家は父も元選手で兄も選手というジャンプ一家というこれ以上ない環境だった」
ジャンプとの出会いは小学校2年生の時だった。かつて原田を育てたジャンプ少年団は、指導者を欠き休止状態に。そこで高梨の父親であり、原田の1学年先輩だった寛也氏が、ジャンプ少年団復活に尽力し、指導者に就任した。ジャンプ少年団には、高梨の兄で4歳年上の幹大(現・明治大学スキー部)もいた。
兄たちの練習姿を見た高梨は「自分もやりたい」と直談判。“天才ジャンパー”誕生の瞬間だった。
母方の祖父の島津新平さんが振り返る。
「最初はジャンプ台の周りで雪遊びをしているだけだったのですが、知らないうちに自分から始めていましたね」
元ジャンプ選手だった父・寛也氏の指導ぶりは、スパルタそのものだった。中でも学校の体育館の舞台上にとび箱と椅子を重ね、そこからマットを敷いた床に向かって、うつ伏せでダイブするトレーニングは、実際のジャンプでの着地の瞬間のシミュレーションには最適な練習だった。多くの児童が、恐怖のあまりバランスを崩し、次々と着地に失敗する中、非凡な才能を発揮したのが高梨だった。
「寛也氏によると、この練習の目的は高いところから落下する際の恐怖をなくすことと、飛行中の姿勢を安定させること。怖がったり、姿勢を崩して顔面を強打する子が多い中、沙羅ちゃんは難なくこなしたそうです」(前出・アマスポーツ担当記者)
弱冠17歳にして、抜群の安定性を誇る高梨の踏み切りの正確さもまたジャンプ少年団での夏季練習で身につけたものだった。上川町には、夏場の練習のためにローラースキー用のジャンプ台がある。高梨はその台を使っての練習を何度も繰り返したという。
競技関係者が証言する。
「ローラースキーの板は通常のスキー板に比べて短く、踏み切りのタイミングを取るのが難しい。ローラースキーで踏み切りのタイミングを徹底的に体に染み込ませたのが現在の成績に結び付いたのでしょう」
まさに小学生時代から、視線の先には世界を目指す不断の努力があったのだ。