87年から現在まで放送中の長寿討論番組「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日系)。政治、皇室、ジェンダー問題、原発、宗教まで‥‥賛否の分かれるあらゆるテーマに論客がトークバトルを繰り広げ、一触即発の事態もたびたびだった。その中心にいたのが、司会進行の田原総一朗氏(87)。歴代のパネリストを振り返りつつ、そのバトルの一部始終を振り返る。
「下手をすると乱闘騒ぎになるんじゃないかという緊迫感に襲われたことは、番組中に何度もあります。でも、それが面白いのです」
そう田原氏はキッパリと断言する。かつて「朝ナマ」といえば、映画監督の大島渚氏(享年80)や作家の野坂昭如氏(享年85)らがパネリストとして、ほぼ毎回出演。議論のボルテージが下がるや、劇薬とばかりに、歯に衣着せぬ直言を専門家や政治家のパネリストに投げかけて挑発、毎回、物議を醸したものだった。田原氏が振り返る。
「僕の原点は敗戦を迎えた小学5年生。まだ戦中だった1学期には、教師から『正義の戦争である』と刷り込まれていたのに、2学期になった途端『間違った戦争だった』と、言うことが180度変わってしまい、ア然とした。それ以来、教師やマスコミを一切信用できなくなった。
大島さんや野坂さんは僕より年上で、戦争に邁進し、戦後はまるでなかったかのごとき振る舞いをする日本社会に対し『加担させられた』という意識が根っこにあった。その反骨心から『国やマスコミをぶっ潰さなきゃダメだ!』という精神を持ち込んで、『朝ナマ』に臨んでいました。番組中に平気で『バカヤロー!』と言い放ったのは大島さんの心からの声。だからこそ本気の喧嘩になり、それが評判になりました」
同じ焼け跡世代の大島監督と野坂氏の主張は、「朝ナマ」の現場では口論になることはなかった。ところが、90年10月23日、思いもよらぬ「場外乱闘」が発生する。
くしくも当日、田原氏は大島監督と小山明子夫人の「結婚30周年パーティー」が開催された東京プリンスホテルに招かれた。宴もたけなわ、登壇したのは酔っ払った野坂氏だった。壇上に上がりお祝いの言葉を贈ったかと思った矢先、「俺を忘れやがって」とばかりに大島監督の顔面めがけて拳を振り上げたのだ。
すっかり祝い酒を飲んでいた大島監督は眼鏡を吹っ飛ばされつつも、ふらつきながら持っていたマイクで応戦。「ゴン! ゴン!」という鈍い音が会場に鳴り響いたほどだった。この様子は、テレビでも放送され、「朝ナマ」史上に残る「場外乱闘」として今も語られるが、田原氏によれば、むしろ「朝ナマ」くらい毎回ヒヤヒヤさせられていた現場はなかったという。
そんな大島監督が放送中に牙を剥き出したひとりに、衆議院議員の菅直人氏(75)がいた。
「菅氏がレーガン元大統領について『芸能人あがり』と発言すると、『バカヤロー!差別発言だ! 芸能人に謝れ!』と。あまりの剣幕に菅氏も素直に謝っていましたね」
大島監督や野坂氏をはじめ、番組開始当初は左寄りの論客が多かったが、保守派の論客だった評論家の西部邁氏(享年78)が番組に出演することで、イデオロギー的な左右のバランスをとった。
「当時の番組出演者の中では、西部さんは圧倒的少数派。毎回、コテンパンにやられながらも頑張ってくれました」
激しい舌戦が当たり前だった中、乱闘寸前のハプニング映像が生放送に乗ったこともある。92年、自衛隊の海外派遣の是非について激論を交わした番組終了直後のことだった。
「観覧席から突然、若い男性が飛び出して来て、柿澤(弘治)さんのシャツの首元を引っ張り、掴みかかったことがありましたね」
近年の主なハプニングといえば、10年7月放送「激論! “若者不幸社会”」の回が挙げられる。批評家の東浩紀氏(50)と経営コンサルタントの堀紘一氏(76)の議論が白熱する一方。
まさに喧嘩同然の応酬となり「もうやってらんないよ」と途中、席を立ってしまったのだ。
いわば、両者とも譲らない本気の喧嘩だったゆえのアクシデントだったが、昨今は「ガチ喧嘩」が見当たらなくなった「朝ナマ」に田原氏は物足りないと嘆くばかり。
「コロナ禍の影響でリモート出演が増えましたが、やはり相手を殴れる距離じゃないとダメだね。番組プロデューサーからは、視聴者からはポジティブな反応がある一方で『田原さんは人の話を聞かない』『途中で割って入らないでほしい』という意見も多く来ている、と聞きます。その通り、確かに人の言うことは聞かなきゃいけない。でも、それでも反論すべきは反論していきますよ。それは今も昔も終始一貫譲る必要はないでしょう」
どこまでも意気軒昂。「ケンカ屋」田原氏が、沈滞した日本社会に、活を入れていくに違いない。