ワイドショー史上、最大のガチ喧嘩といえば、99年から01年にわたって繰り広げられた「ミッチー・サッチー騒動」に異論の余地はあるまい。野村克也夫人の沙知代さん(享年85)と浅香光代(享年92)による誹謗中傷合戦はメディアを巻き込み、最終的には沙知代さんが色香な写真集を発売するなど、思わぬ方向に発展。その総決算の軍配は──。
阪神・野村克也監督夫人の野村沙知代さんと、女剣劇のスターだった浅香光代の壮絶バトルが勃発したのは1993年3月末のこと。浅香がパーソナリティを務めるラジオ番組を体調不良で突然降板し、その理由をぶちまけたのが発端だった。
当時を知るワイドショースタッフが明かす。
「浅香と4歳下の沙知代夫人は浅香の夫・世志凡太と野村監督が友人だったことから、夫人同士も交際する仲で、サッチーが浅香の家に頻繁に遊びに出かける良好な関係でした。
ところが、両者が険悪な関係になったのは銀座・博品館劇場で98年に上演された『ミッチーとサッチーのウルトラ熟女対決』で共演したのがきっかけです。沙知代さんは稽古に6時間も遅れてくるなり、高額なギャラを要求。このサッチーのメチャクチャぶりにミッチーがたまりかね、激怒、猛批判を展開した。その怒りはすさまじく、『何様のつもりだ』『虎の威を借るブタ』『嘘で嘘を固めた人生』と言いたい放題でした」
この一連の浅香の批判に、気の強いサッチーも負けじと「(浅香の)売名行為」などと反論。すると、過去にサッチーに煮え湯を飲まされたタレントが他にもいたことが発覚。罵倒されたことがある渡部絵美らも参戦したことで騒動はますますヒートアップしたものだった。
「それまでのサッチーは誰彼構わず暴言を繰り返し、野村監督の威光を傘に着て阪神の選手まで怒鳴りつけることがたびたび指摘されていました」(前出・スタッフ)
ミッチーの苛烈な反撃にワイドショーが飛びつかないわけがない。ほぼ放送時間をぶち抜いて連日、2人を追いかけるスクープ合戦が繰り広げられた。特にサッチー批判を繰り広げたのは日本テレビ。コラムニストの峯田淳氏が解説する。
「日テレの中でも過激にサッチー批判をしていたのは『ザ・ワイド』でした。当時ノムさんは巨人のライバル、阪神タイガースの監督。読売グループの一員としては阪神追い落としにもなる野村夫妻のバッシングを展開しているのではとも言われた。『小学校でモノを返さないことを“サッチーする”と言っている』と語ったコメンテーターもいたほど、社会現象にもなりました」
この熟女2人によるバトルは世間を二分し、ミッチー派、サッチー派に分かれて大フィーバーに。ミッチー派が「よくぞ言ってくれた」「人望があるミッチーが暴露するのはよほどのこと」「サッチーをかばう人がほとんどいない」と応援すれば、サッチー派は「ここぞとばかりに悪口を言うのはフェアじゃない」「ズバズバ言うサッチーが好き」「サッチーの方が正直者だと思う」と擁護する声も相次いだ。
「結果的に徐々に分が悪くなったのはサッチー陣営だった。なぜか、コロンビア大留学とした学歴詐称疑惑や講演会のダブルブッキング騒動など、醜聞が出るわ出るわの『サッチー・バッシング』が過熱。肝心の講演会が次々にキャンセルする事態になり、レギュラー出演だった『魁傑熟女!心配ご無用』(TBS系)を降板。これを機にテレビからいったん姿を消し、事態は収束しました」(前出・スタッフ)
その後、翌00年にセミヌード写真集「Stay Young Forever」を出版し、年末にテレビ復帰。しかし、01年には法人税法違反の疑いで逮捕され、有罪判決に。この時期に夫の野村監督も阪神の監督を辞任するなど毀誉褒貶の多い時期が続いた。
サッチーが死去したのは17年、ミッチーは20年。浅香は亡くなる前に騒動を振り返り、こう雑誌に語ったことがある。
「サッチーがしていたことって全部野村監督のためなんだよ‥‥確かに度を越したところもあったけど、それだけ一生懸命だったんだなって今は思う」
長い年月が両者のわだかまりを氷解させたのか。