横浜大洋時代、須藤豊監督が率いていた頃、谷繁は、ようやくレギュラーの座を獲得。安心感が芽生え、遊び歩いていた時期があった。しかし、89年のシーズンが終わると、西武から秋元宏作がトレード移籍で入団。谷繁と併用されていた時期があった。しかも秋元は、佐々木主浩とバッテリーを組むことが多く、正捕手の座が脅かされたのだ。谷繁は今でもその当時のことを事あるごとに思い出すという。
「これがプロの世界かと思った。だから、あれ以来、絶対自分の場所を守ろうという気持ちになった。横浜を出たのも、金銭とかではなく、この監督の下(当時の森祇晶氏)ではいずれ自分のいる場所が相川(亮二=現ヤクルト)になると思ったから。監督の思惑が見えていましたからね」
それだけに、02年に新天地の中日に移籍してから12年、兼任監督になった今でも正捕手の座を誰にも譲りたくないという思いが強いのだ。
落合時代には、ベテラン・山本昌が投げる時には、イキのいい小田幸平をスタメンに使うことが多かった。落合はその理由を「ベテラン投手にはグイグイ引っ張る女房役のほうがいいに決まっている。私生活だって(山本昌は)16歳年下の若い嫁さんをもらっているじゃないか」と語っていたが、谷繁はこの采配には不満の様子で、5回以降になると出場に備えて毎回、準備をしていた。
「絶対に休みたくなかった。休養なんてオレには必要ない」が口癖の谷繁だけに、今シーズンもペナントが始まれば、また選手としての雄姿を見られることになるだろう。
とはいえ、“二足のわらじ”に不安はないのか。かつて捕手の兼任監督といえば、南海時代の野村克也やヤクルトの古田敦也がいた。
野村は“公私混同”による途中解任までの7年間、みずからマスクをかぶり、投手をリードしてきた。ノーコンだった江本孟紀、巨人では1勝もあげていなかった山内新一を20勝投手に育て上げるなど、その手腕は高く評価された。野村はこの時、まだ32歳。故障で休んだ74年以外は、年間120試合以上マスクをかぶり続けたのであった。
その兼任監督時代、野村は監督としてよりも、4番・捕手としてチームを引っ張った。当時、南海の主将だった藤原満は、「あれだけ選手として実績を残してチームを引っ張ってくれれば、誰も文句を言う人はいない。うるさ型の野手も『失礼しました』となってしまう」と、野村の兼任監督としての存在感を振り返る。
だが、選手として活躍するには、監督としての不十分な部分を埋め合わせてくれる名参謀の存在が不可欠だったのは言うまでもない。その点でも野村は恵まれていた。藤原が続ける。
「当時、ブレイザーというメジャー流の頭脳を持った参謀がいたからこそ、あそこまでやれたと思う。ブレイザーの存在は、誰もが認めていたから」
つまり兼任監督には、選手としてのチームを率いる成績を残しつつ、スタッフとして名参謀を配することが、勝利の必須条件だというのである。