DeNAとの2連戦で印象的だったのは、谷繁よりも森繁和ヘッドコーチの“監督”ぶりにあった。谷繁が選手として出場している間は、選手交代はもとより、チームの采配を一手に担う一方、谷繁が監督として手腕を振るう際には、アドバイスを惜しまない。まさに「二人三脚」でチームを指揮していたのである。
実は、セ・リーグでは、監督が選手として出場している時には、あらかじめ指名したコーチに監督の代行をさせることができるという、通称「古田ルール」というものが存在する(セ・リーグアグリメント第24条)。
この規則は、元ヤクルトの古田敦也が、兼任監督に就任した翌年の06年に制定されたことから「古田ルール」と呼ばれているが、谷繁は兼任監督就任にあたって、たびたびコーチや審判などとミーティングを繰り返し、ルール違反を犯さないよう綿密なシミュレーションを繰り返していたという。いわば、予行演習を経て、満を持しての兼任監督デビューだったのだ。
実際、古田の兼任監督時代には、選手としての出場機会が少なく、チーム内にそれほど不都合は生じなかった。
だが、谷繁の場合、野村克也の持つ最多試合出場記録(3017試合)に、残り117試合と迫っているだけに、監督代行との意思の疎通が一番の采配の鍵を握ることになってくる。その役割を落合監督時代に投手起用について全てを任されていた森が務めることで、谷繁にとって大きなアドバンテージとなるはずなのだ。
みずからも兼任監督を務めた経験を持つ野村克也は、かつての経験を踏まえて森を高く評価する。「(兼任監督は)自分の代行をするヘッドコーチの重要性をあげた。特に打撃面では、監督がベンチに戻ったといえども、試合の流れは簡単につかめるものではない」
兼任監督がチームを率いる場合、チームを指揮する森の舵取りしだいで、チームは浮上もすれば、沈没することもある。
それだけに、谷繁自身の森評はどうなのか。谷繁の口からは、かつての落合政権時代での印象が今でも深く刻まれているという。
かつて落合が監督退任を決めた11年9月、コーチ陣も総退陣となったが、この時に唯一、投手陣が送別会を開いたのが、他ならぬ森だったというのだ。谷繁が振り返る。
「次の監督のことを考えたら、表立ってやりにくいのが世の常。それを堂々とやった投手たちもすごいが、そこまで信頼関係を作った(森)コーチもすごいと思う」
何気なく谷繁が語った言葉からも、「投手のことは森に任せておけば大丈夫」という思いが伝わってくる。