2014年12月29日。東京・渋谷にあるNHKホールでは「第65回紅白歌合戦」のリハーサルが行われていた。五木ひろしが紅白に出場するのは、これで通算44回目。五木が選んだのが1971年に発売、大ヒットした「よこはま・たそがれ」。作詞を手掛けたのは、この年9月、呼吸器不全のため亡くなった山口洋子氏だった。
リハーサルの後、同局で会見を開いた五木は「天国の山口さんへの追悼と、感謝の気持ちを込めて歌いたい」と、数ある候補の中からこの曲を選んだ理由を説明したが、まさに泣かず飛ばずのドン底だった五木にラストチャンスを与えてくれたのが、この曲だったのだ。
「これが駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやろう」。そんな決意の中、アマチュアが集まるオーディション番組「全日本歌謡選手権」に、ミノルフォン専属のプロ歌手「三谷謙」として出場した五木。
8週目を勝ち抜いた頃、審査員である平尾昌晃のもとに1本の電話があった。相手は山口氏だった。山口氏は17歳で芸能界入りした後、ホステスに転身。東京・銀座に高級クラブ「姫」をオープンした。石原裕次郎、勝新太郎、長嶋茂雄などが足しげく通う店の敏腕ママとしての顔のほか、中条きよしの「うそ」や石原裕次郎の「ブランデーグラス」の作詞を手がけ、大ヒットに導いた作詞家としても知られていた。
「彼の曲を一緒に作ってみない?」。初回から五木の歌唱力に注目していた彼女はすでに8編ほどの作品を書き上げており、それを平尾に手渡した。
五木は見事に10週を勝ち抜き、グランドチャンピオンに輝いた。そして完成した「よこはま・たそがれ」で五木は、日本レコード大賞歌唱賞ほか、多数を受賞。「紅白」への切符を手に入れ、作詞家・山口氏とともに歩み出すことになる。
だが、公私ともに濃密な時間を過ごせば過ごすほど、同じ歌手と同じ作家で組み続けることへの葛藤が生じてくるものだ。山口氏と五木の場合も、そうだった。
1979年7月、五木は個人事務所である「五木プロモーション」を設立。蜜月だった2人の関係に終止符が打たれた。以前、五木をインタビューした際、本人は当時の気持ちをこう語っている。
「山口さんのもとを離れるということは、山口さんからも離れるということ。だからこそ『絶対に成功しなければならない』という思いが強かったのは事実です。だって、成功しなかったら離れた意味がないし、育ててくれた恩返しもできませんからね」
そんな五木は、この日の会見で「何万回、歌ったかわからないけれど。僕の中ではずっと(山口さんは)生きています。44年、一緒に歩んできたし、これからもその気持ちは変わりません…」と語り、天国の山口さんに精一杯の思いを込めて、歌声を届けたのだった。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。