「結婚してから正月三が日、実家に帰ったことなどありませんでした。今年の正月、初めて帰った時、あぁこんなにホッとできる空間があるんだと…。こういう結果になったのは、私の家庭人としての至らなさに尽きると思います」
1989年2月23日、東京・赤坂の日本コロムビア本社で離婚会見に臨んだ石川さゆりは、そう語って目を伏せた。
石川が元マネージャーでフリーライターのA氏と結婚したのは、1982年。当時、A氏は両親と3兄弟の家族13人が同じ敷地内で生活。仲睦まじさを前面に押し出す一方、この2年ほど前から、夫婦の間には危機説が流れていた。当時、レコード会社関係者は、次のように証言している。
「結婚後、2人の間に女の子が誕生したのですが、産休後の復帰第一弾『波止場しぐれ』がレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。翌年発売された『天城越え』で新境地を確立したことで、演歌の世界に『さゆり時代』が到来しました。しかし夫婦の間には、歌手である前に妻、母であるべきという考えがあり、例えば名古屋で2日間公演があれば、最終の新幹線で帰京。翌朝、再び名古屋へという生活を送っていましたからね。限界が訪れるのは時間の問題だったのかもしれません」
一方で「天城越え」以降の「夫婦善哉」「滝の白糸」などの楽曲が、石川に「新たな手ごたえ」を感じさせていたことも事実だった。彼女は「歌がどんなに好きで、自分にとって大切なものであるか、改めて分かった」と話したという。
つまり、皮肉にも結婚生活が苦難の道を辿り、石川の歌心を変えたことが、聴く者を共感させる結果になったのである。
だがこの時、女ざかりの32歳。子持ちのバツイチとはいえ、周囲の男たちが放っておくはずもなかった。離婚後には音楽プロデューサーや九州の実業家、テレビプロデューサーとの仲も取りざたされた。
だが度重なるスキャンダルの渦中にあっても、石川は歌い続けた。醜聞さえも気迫あふれるパフォーマンスの肥やしにしているかのように。その姿はまるで「天城越え」に歌われた女の情念が、乗り移ってしまったのではないかと思えるほどだった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。