私がたこ八郎と初めて会ったのは、1983年の冬。場所は新宿のゴールデン街にある「クラクラ」という店だった。ここは「はみだし劇場」を主宰する役者の外波山文明が営む店で、たこはこの店の常連。というより、ほぼ毎日この店のカウンターで酒を飲み、酔いつぶれて長椅子で寝てしまう、というのが日課になっていた。
当時、たこはフジテレビの「笑っていいとも!」にレギュラー出演し、単行本「たこでーす。」を刊行。そんな彼の素顔に迫る、というのがインタビューのテーマだった。
しかし、所属事務所に連絡するも「いや~、本人がつかまるかどうか…。夜、この店を訪ねるのがいちばん確実」というわけで、この日の訪問となったわけである。
夜9時過ぎ、「クラクラ」のドアを開けると、たこはすでに酩酊状態。というより、四六時中飲み続けているため、常に酔っている状態が続いている、といった方が正しいのか。
たこ八郎こと斉藤清作は、日本フライ級王者としてタイトルを2度防衛した元プロボクサー。3度目の防衛戦に敗れた23歳の時に、喜劇界の大御所で同郷の、由利徹のもとに弟子入り。ボクサー時代の後遺症を思わせる呂律の回らない話し方と、演技とも地ともつかない「ボケっぷり」で一躍、人気者になった。
カウンターで一緒にグラスを傾けること数時間。なんとかインタビューは終了した。私も彼の純朴すぎる人柄に魅了され、その後もたびたび「クラクラ」に通ったものだ。
ところが、そんなたこが、海水浴に来ていた神奈川県真鶴で溺死したことを知ったのは、85年7月24日のことだった。外波山いわく、
「気付くと、砂浜から20メートルくらいのところに、たこちゃんがうつ伏せで浮いていて。すぐに引き上げて人工呼吸したが、意識が戻ることはなかった」
死亡が確認されたのは、午前10時49分。この日も朝から焼酎を飲んでいたという。
たこの自宅は、新宿区内にある四畳半一間のアパート。そのため、遺体は外波山の自宅1階の広間に安置され、仮通夜には200人を超える弔問客が訪れた。
たこと特に親しかったあき竹城は、報道陣の問いかけに、
「たこちゃんがいつも私の手を握ってくるんだけど、その手がすごく冷たくてね。今でも、その感触が残っているの。たこちゃんは海が大好きだった。その海で死んだんだから、幸せだったんじゃないかなぁ。そうでも思わなきゃ…」
そう言って、泣き崩れた。
スポーツ紙に「たこ、海に帰る」という大きな見出しが踊った7月25日、再び外波山宅を訪ねた。霊前には小皿に盛られた梅干しと納豆、そして大好きだったサントリーホワイトがグラスに半分ほど注がれていた。享年44。愛された人生だった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。