源平合戦随一の色男といわれる梶原景季(かげすえ)は、ライバルにコロッと騙される超お人よしだった。
景季は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の有力御家人だった梶原景時の子である。景季を有名にしたのはその美男子ぶりと、承久三年(1184年)に勃発した宇治川の合戦で演じた先陣争いだった。
宇治川の合戦は頼朝の弟・義経軍と、同じ源氏の流れを汲む木曽義仲軍が、宇治川を挟んで対陣。義経軍が義仲軍を打ち破った戦いで「平家物語」にも記されている。
この戦いで先陣争いを演じたのが景季と佐々木高綱だが、2人には浅からぬ因縁があった。当時、頼朝は麿墨(するすみ)と生食(いけづき)という2頭の名馬を所有していた。
景季が義仲軍との戦いのため出発する際、頼朝に生食をねだる。だが、頼朝は「生食はやれぬ」と拒否し、その代わりに麿墨を与えた。
ところが宇治川での戦いが始まると、コトが発覚。麿墨で川に乗り入れようとした景季の目に映ったのは、生食にまたがる佐々木高綱のさっそうとした姿だった。実は頼朝が高綱の願いに応じて、生食を与えていたのだ。
これに激怒した景季は恥辱を晴らすため、高綱の殺害を決意した。殺されてはたまらない高綱は、とっさに「生食は盗んだ」と嘘をつく。武士にあるまじき行為といえばそうだが、景季はコロッと騙された。「それならば、俺が盗めばよかった」と笑ったという。
だが、話はそれでは終わらない。両者がまさに川に乗り入れようとした瞬間、今度は高綱が「お前の馬の腹帯が緩んでいる」と景季に嘘をついた。馬に鞍を結びつける腹帯が緩んでいては、川を渡っている最中に転落する可能性がある。そのため、景季が腹帯を締め直そうとした。
そのスキをついて高綱は川にいち早く乗り入れ、一番乗りを果たしたのである。まさに、景季は同じ相手に一度ならず、二度までも騙されたことになる。
この愛すべきお人よしキャラクターは頼朝には重用され、一時は侍所別当として力を持った。
だが、頼朝の死とともに、運命は暗転。結局、父・景時とともに鎌倉を追放され、正治二年(1200年)、戦いの中で自害して果てた。享年39。
その墓所は全国各地にあるが、愛馬・麿墨を葬ったとされる場所は、東京都大田区の満福寺(写真は麿墨の像)などにある。
(道嶋慶)