源平合戦の渦に押し潰された、幼いカップルの悲劇を紹介する。
血族、親族とはいえ、血で血を洗う権力闘争を繰り広げるが、それも武士の世の習いだろう。
だが、政略結婚の犠牲とされた上、許嫁(いいなずけ)の父・源頼朝に殺された木曽義仲の嫡男・義高と頼朝の長女・大姫のケースは、あまりにも残酷だ。
当初から結末は見えていたかもしれない。寿永2年(1183年)、義高の父・義仲が平家討伐のため挙兵。鎌倉で同じ平家盗伐を画策する頼朝と武力衝突必至の状況となった。
だが、同じ源氏同士の争いを避けるため、義仲は当時11歳になる義高を人質として鎌倉側に差し出すことを承諾。和議が成立した。人質といっても義高は当時、6歳になる頼朝の長女・大姫の許嫁という立場。決して粗略には扱われていなかった。
ところが平氏を破って入京した義仲が、後白河法皇と対立。頼朝は弟・範頼と義経を義仲追討軍として派遣し、寿永3年(1184年)1月、粟津の戦いで義仲を討った。
この一件を境に、頼朝は義高の殺害を決意。大姫の計らいで一度は落ち延びたが、結局は武蔵国の入間河原で藤内光澄に討ち取られた。享年12だったという。
この義高殺害が新たな悲劇を生んだ。7歳になったばかりの大姫のショックは想像以上で、その後、精神を病んで床に伏せることが多くなり、わずか20歳でこの世を去ることになったからだ。当時、大姫には後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がっていたが、これにより、実現することはなかった。
救いもある。この義高と大姫は、あの世で一緒になったかもしれない。現在、義高の墓と伝わる木曽塚(写真)は神奈川県鎌倉市常楽寺の裏手の山にある。そのわずか数十メートルのところに、大姫の墓とも伝わる「粟姫稲荷 姫宮の墓」がひっそりと建てられているからだ。
鎌倉幕府の初代将軍・頼朝の長女と朝日将軍・義仲の長男の墓とも思えない風情が、静かに添い遂げたい2人の心を物語っているような気がしてならない。
(道嶋慶)