酒乱の上、好色で数々の問題を起こした石田三成の孫が、江戸時代前期にいた。陸奥国弘前藩の第3代藩主・津軽信義である。
父親は2代藩主・津軽信枚で、母親は関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の三女。あの豊臣秀吉の正室・高台院の養女だった、辰姫という人物である。現代の法律用語なら、辰姫は豊臣秀吉の義理の娘で、信義は義理の孫ということになる。
辰姫は元和九年(1623年)に一人息子の信義を残して死去。父・信牧も寛永八年(1631年)に死去したことから、信義は13歳の若さで藩主の座に就いた。
いくら平均寿命が現代と比べて短い江戸時代とはいえ、13歳はまだ子供だ。戦国時代の名残を残す、口うるさい譜代の家臣たちも大勢、残っている。藩主として手腕を振るうのは、大変なことだったに違いない。
信義はそのため、幼少の頃から近侍していた船橋半左衛門親子を頼った。その船橋半左衛門の下に新参者が集結。これが古参の譜代の家臣との対立を招き、ついに寛永十一年(1634年)、船橋騒動と呼ばれるお家騒動にまで発展した。
最終的には両派から大量の処罰者が出て、ケンカ両成敗で決着がついた。信義はまだ若年ということで、幕府からは何の処分も下されなかったという。
信義は性格があまりよろしくなかった、と伝わっている。普段は情に厚い面はあったが、とにかく好色な上に、酒乱の「情張り(じょっぱり)殿様」だった。情張りとは、自分勝手でわがままで頑固で意地っ張りな人を示す方言だ。
信義は酒が入ると、ネチネチと家臣にくだを巻いた。そして少しでも失敗があると、即座に手討ちにした。そのため、家臣は家族と別れの杯を交わして登城したという。
また、手当たり次第に女性に手を出すというスキャンダルを、何度も引き起こしている。なんと子供は25男26女。まさに精力男だ。
新田開発や鉱山発掘などに功があり、書画と書道にも優れた一面を持っていた。だが正保四年(1647年)には、反発する家臣たちが信義を藩主の座から引きずり下ろそうとする「正保の騒動」も招いている。あまり名君とはいえない人物だったかもしれない。
(道嶋慶)