女癖が悪すぎて天皇の逆鱗に触れ、死刑になった絶世のイケメンにして超ハレンチな公家がいる。江戸時代初期に知行200石を有した、左近衛少将・猪熊教利である。
教利は江戸時代の各大名家に与えられる山科家の分家・猪熊家の当主だった。「源氏物語」の主人公・光源氏と並び称されるほどの風貌。しかも、ファッションリーダーだった。「猪熊様(よう)」といわれた髪型や帯の結び方は、流行の最先端をいっていたらしい。
そしてとにかく、女癖が悪い人物だった。人の妻や宮中に仕える女官に手を出しまくりで…。
だがそんな生活が、いつまでも続くはずがない。後陽成天皇の耳に入ると、慶長12年(1607年)、勅命により勘当処分=勘勅を被り、京都から追放処分を受けたのである。
だが、この程度の処分でおとなしくなるような男ではなかった。いつしか京都に舞い戻り、今度は仲間も集めて不義密通三昧の生活を送り始めたのだ。
いつしか、後陽成天皇の寵愛を受けていた広橋局を口説き落とした左近衛少将・花山院忠長も含め、公家8人、女官5人、官職を持たない地下1人という一大乱行グループが出来上がった。
このグループの存在が後陽成天皇の元に届いたのは、慶長14年(1609年)。激怒した天皇は、全員の死刑を主張する。コトが露見した教利は朝鮮国へと逃げるため、いち早く九州へ。日向(今の宮崎)に潜伏したという。
だが、あまりに関係者が多いため、全員を死罪にすると大混乱を招く。しかも当時、公家には死罪という刑罰はなかった。そのため、捜査権を持っていた江戸幕府側として、初代将軍・家康と京都所司代の板倉勝重が協議。首謀者の教利と、宮中の牙医(歯医者)・兼康備後の2人だけを死罪、その他は硫黄島や蝦夷松前藩、伊豆新島への配流という処分で落ち着いた。これが「猪熊事件」である。
日向で捕らえられた首謀者の教利は、京都の常禅寺で斬首となった。この事件が幕府の公家支配を進め「禁中並公家諸法度」制定につながっていく。
自らの女癖の悪さが、その後の公家たちを苦しめることになるとは、さすがの教利も思わなかっただろう。
(道嶋慶)