現在はお笑いタレントとしてだけでなく、画家や書家、そしてヨガ実践家としても活動する片岡鶴太郎だが、彼がブレイクするきっかけが「小森のおばちゃま」の愛称で親しまれた映画評論家、小森和子のものまねだった。
小森は1909年の生まれというから、明治42年。95年3月に自宅マンションで転倒して車いすが手放せなくなり、翌年1月に引退するまでは、80代にして現役バリバリの映画評論家として活躍してきた。
私がそんなレジェンドに、長寿の秘訣である「食と健康法」について話を聞くため、彼女が主宰する六本木のムービーサロン「ココ」を訪れたのは、90年代初頭だった。
当時は鶴太郎の「こ、こ、小森の、おば、おば、おばけちゃまよ~」というフレーズがウケていたこともあり、彼女もバラエティー番組などにたびたび出演。トレードマークである玉ねぎ型のヘアと、暖かい人柄が感じられる軽妙な語り口で人気を博していた。
取材は1時間ほどで終わり、ひょんなことから恋愛話に。というのも当時、小森はバラエティー番組などで、「昔は惚れ魔って言われていたけど、今は片思い魔」「フランク・シナトラちゃんにベッドへ誘われたの」「神戸の外国人と付き合っている時に、日本人のスポーツ選手と遊んでいたんだけど、ブカブカだった」などなど、自身の男性遍歴をあっけらかんと告白。小森が言った。
「日本では60歳を過ぎたら性行為なんて過去のもの、と思う人が多いけど、おばちゃまが最後に『ああ、やっぱりいいな~』と思ったのは70くらいの時。性行為は神様が人間に与えた根本。いい年をして…じゃなくて、いい年をしてやれるんだったら、それが健康だという証。死ぬまで男であり、女であるべきだと思うわね、おばちゃまはね」
聞けば、小森は19歳の時に「そんなもの、大切に守っていても宝の持ち腐れだよ」と言われ、初体験を済ませた後、一度結婚するも、離婚。婚姻中から数々の男性と浮き名を流し、生涯の目標はなんと「1000人斬り」。ただ、私が話を聞いた時点では「まだ400人くらい」と笑っていたことを思い出す。
そんな話を素敵な笑顔で語ってくれたが、05年1月9日未明に、95歳で天寿を全う。翌10日、弔問に訪れた鶴太郎が囲み取材に答えた。
「おばちゃまには、いつも優しく接していただきました。僕がブレイクしたきっかけは、おばちゃまのものまねですが、もう、ものまねは封印します」
そう言って、大粒の涙を流したのである。
小森の死後、養女によるすったもんだもんだの騒動もあったが、不肖この私も「死ぬまで男であるべき」と改めて胸に誓ったものである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。