判官贔屓という言葉がある。判官とは鎌倉幕府を開いた兄・源頼朝に疎まれて奥州・平泉で自害した悲劇のヒーロー・源九郎判官義経のことだ。
伝承では義経は幼少時より、鞍馬山で天狗や陰陽師の鬼一法眼から武術を学び、独自の忍術「義経流」を大成したとされている。その義経に仕えた四天王のひとり、伊勢義盛も実は忍者だという説がある。
現在、伊賀の敢國神社などでは「伊勢義盛忍百首みくじ」というおみくじを引くことができる。これは義盛が詠んだとされる「伊勢三郎義盛百首」がもとになっている。「伊勢三郎義盛百首」は「ようち(夜討ち)にはしのびのものを先立てて敵の案内しりて下知せよ」「しのびには習いの道は多けれど先づ第一は人に近づけ」などといった忍び=忍術の極意を「五・七・五・七・七」で詠んだとされる和歌(忍歌)を百首集めたものだ。
義盛が具体的に忍術を使ったという証拠は残されていない。だが、奇襲戦法が得意な義経の戦いを四天王として支えたことを考えれば、忍びの心得があったと考えても不思議ではない。
義盛は文治元年(1185年)11月3日、頼朝と対立した義経が都落ちする際にも同行。九州へ向かう船が暴風雨で難破したため、一行が離散した後、義盛は単独で潜伏した。
その後、伊勢・伊賀の守護・山内首藤経俊を襲撃したが、敗れて鈴鹿山へ逃亡。文治二年(1186年)7月25日、鎌倉方に発見されて斬首され、首は京都でさらされたことになっている。
だが、どこで死亡したかのは定かではない。墓碑や供養塔、首塚は群馬県安中市の常楽寺にあるほか、三重県四日市市川島町の西福寺やその近くの田畑には、三郎塚もある。
「義経記」には「義盛は平泉で義経と運命をともにした」との記述も。忍術を使って逃げ延び、義経一行と合流した可能性は否定できない。
(道嶋慶)