伊賀忍者の中には、上忍三家がある。上忍というのはいわば、忍者集団の総司令官的な役割を担い、中忍、下忍を指揮する立場にある。その三家が服部、百地、そして藤林である。
上忍三家の百地家が伊賀国の内部を拠点としていたのに対し、藤林家は伊賀国の北部を基盤としていた。その藤林家の当主として有名な人物が藤林長門守、本名は保豊だ。伊賀北部の阿拝郡湯舟郷出身で、現在も同地に伝藤林長門守堡跡が残っている。
当初は駿河の大大名・今川義元に仕えて駿府に居住したが、本領に騒動があり帰国。妹が南近江の大名・六角義賢の妾となっていた縁もあり、六角氏の仕事を請け負うようになった。
永禄年間、六角義賢に仕えていたころ、義賢配下の百々氏(どどし)が再三にわたって謀反を繰り返していた。義賢は百々氏を討伐するため居城・沢山城を攻めたが、なかなか落とすことができなかった。
そこで義賢は、藤林長門守に攻略を要請。長門守は配下である楯岡道順に命じて、沢山城に向かわせたという。楯岡道順は伊賀忍者48人を変装させて城内に侵入させ、火を放って攪乱。落城にひと役買っている。
その後の長門守の消息は不明だ。天正時代、織田家が伊賀惣国一揆と戦う、天正伊賀の乱が起きた。天正六年(1578年)から天正七年(1579年)にかけての第一次天正伊賀の乱は伊賀衆が勝利したが、その2年後の天正九年(1581年)、第二次天正伊賀の乱が勃発。5万人とも10万人ともいわれる織田軍に壊滅させられたが、長門守は織田側について生き残ったという説もある。
また、柏原城にこもって徹底抗戦し、百地丹波と同一人物で寛永十七年(1640年)、84歳まで生きたという話も残っている。
なお、子孫の藤林保武は忍者の姿を伝える貴重な史料「萬川集海」を著している。
(道嶋慶)