世界的に人気のある日本文化のひとつに「忍者=NINJA」がある。18年にニューヨークタイムズ紙が発行した「THE NINJA」は、アメリカ国内で大ベストセラーとなったほどだ。
日本国内でも、忍者の存在はつとに知られている。今回は、実在したとされる忍者を、8回にわたって紹介する。
第1回は歴史上、忍者のルーツとされる大伴細人(おおとものさびと)について語ってみよう。
大伴細人は飛鳥時代に実在し、聖徳太子に仕えた人物だ。別名・大伴細入(おおとものさいにゅう)ともいわれている。忍び=忍者の起源には諸説あるが、甲賀の忍術書「忍術應義傳(にんじゅつおうぎでん)」で、細人を初めて「志能備(しのび)」「志能便」と呼んでいたことが、由来ともいわれている。
細人は甲賀流忍術の祖だが、最初にその能力に目を付けたのが、推古天皇の摂政として活躍した聖徳太子だった。用明天皇二年(587年)、大連の物部守屋が穴穂部皇子と組んで、政治の実権を奪おうとした。丁未の乱である。
守屋は結局、大臣・蘇我馬子の命で差し向けられた聖徳太子らに討伐されたが、この丁未の乱が太子と細人との最初の出会いだった。
物部守屋との戦いで、太子が甲賀に逃げ込んだことがあった。その際、細人は太子の馬を杉につなぐと忍術を使って太子を隠し、追ってきた守屋に別の場所に太子がいると思わせたという。のちに太子はこの地域を「馬杉」と名づけている。
それをきっかけに、太子は細人に物部氏の調査を依頼。さらに守屋を甲賀の地におびき出すように命じ、守屋の討伐に成功したという話が残っている。
太子はその働きを評価。「良き情報の入手を志す者」という意味の「志能便(備)」という名称を与えた。
その後、細人は政治の実務を執ることになった太子に側近として仕え、裁判の下調査を担当し、重用されたとされている。
太子は一度に8人の話を聞き分け、一人一人にきちんと答えたというエピソードを残している。その超人的な能力を陰で支えたのが諜報担当の細人だったとしても、なんら不思議ではない。
(道嶋慶)