天正十年(1582年)に起きた本能寺の変で、織田信長とともに運命を共にしたといわれる甲賀忍者がいる。伴太郎左衛門尉資家である。
太郎左衛門は近江国甲賀郡(現・滋賀県甲賀市水口町)の郷士の出で、当初は主に戦国大名の六角氏から仕事を請け負っていた。
この当時の忍者は、どこかの大名家の家来という立場ではなかった。いくつかの大名家から仕事の要請を受けて、その都度、報酬をもらうという、いわばパートタイマーのようなものだった。
そのため、六角家の力が衰え始めたのをきっかけに、他家の仕事を積極的に請け負うようになった。そのひとつが記録に残っている。永禄五年(1562年)、徳川家康がまだ21歳で、松平元康と名乗っていた頃の三河・上ノ郷城攻めである。
この今川方の城を攻める際、太郎左衛門は配下の甲賀忍者80人を率いる特殊部隊として城内に潜入。火を放ち、「裏切り者だ」と騒ぎ立てて敵方を攪乱し、落城させた。城主の鵜殿長照は討ち死にし、長照の子である氏長、氏次は人質になったという。この2人が、元康が今川方に差し出していた正室・瀬名姫、嫡男・竹千代、長女・亀姫らの交換要員となったことを考えれば、貢献大だ。
太郎左衛門はその後、織田信長の家来になった。信長に心酔していたのだろう。その証拠に、本能寺の変では切腹前に信長に命じられて寺に火をつけ、信長の遺体が見つからないように工作。太郎左衛門の忍術をもってすれば騒乱の中、闇に紛れて逃げ延びることも可能だったかもしれないが、果敢に寺から討って出て、明智方に討ち取られている。ビジネスライクな当時の忍者らしからぬ最期といえよう。
この太郎左衛門の先祖は、いわくつきの人物だ。貞観八年(866年)、応天門が放火される応天門の変が起きた。当初は左大臣・源信の犯行とされたが、のちに密告者だった大納言・伴善が真犯人だったとされ、流刑になっている。
(道嶋慶)