後醍醐天皇を支え、後に神となった楠木正成は、なんと「忍者」だった。
「打倒・鎌倉幕府」の立役者のひとり、正成は南北朝時代、戦国時代、江戸時代を通じて、日本史上最大の軍事的天才との評価を受けている。歴史の教科書にも掲載される建武の新政では、最高政務機関の記録所の寄人(よりうど)に任じられ、足利尊氏らとともに後醍醐天皇を支えたが、反乱軍となった足利尊氏の軍に敗れて自害したと伝えられる。
悪党と呼ばれる最下級の武士出身で、当時としては信じられない、180センチを超す大男。その正成が用いた籠城技術、ゲリラ戦や情報戦、心理戦を導入した画期的な戦い方は、通常では考えられないものだった。
「萬川集海」という書物には、正成が49人もの忍者を従えていたことや、忍術の極意を1巻にまとめて嫡子・正行(まさつら)に授けたという話も残っている。また、変装の名人だったともいう。
妹が伊賀の服部氏に嫁いだように、正成と忍者の関係は明らか。伊賀の服部氏といえば、伊賀忍者の祖と呼ばれる「上忍3家」のひとつだ。
通常、忍者集団は秘密主義を貫き、忍者の一族としか婚姻関係を結ばない。服部家に嫁いだからには、それなりの格式を持った忍者の血筋だったと推察できる。
諸説はあるが、能楽の祖といわれた観阿弥は、この正成の妹と服部氏の間に生まれた子であるという。今でこそ伝統芸能のひとつに数えられる能楽だが、当時は日本各地を自由に歩き回り、忍者が得意とする情報収集をする間者=スパイの役を兼ねていたといわれている。
実際、正成は伊賀忍者や能楽師、船頭や荷揚げ人足、馬夫、日雇い労働者や博徒、香具師(やし)、遊女などの、いわゆる散所の集団らからなる一大組織を作り上げ、その長となっていた。観阿弥やその子・世阿弥もその組織の一員に組み込まれ、忍術を用い、情報収集をしていたことは間違いない。
正成が起こした忍術は「楠木流」と呼ばれ、後に名取流、行流(楠木正成流)などの分派ができたという。
JR神戸駅近くの湊川神社に、正成は祀られている。忍者出身で神になるとは、本人も思っていなかったことだろう。
(道嶋慶)