「11PM」をはじめ「クイズダービー」「世界まるごとHOWマッチ」など昭和、平成の人気番組で司会。タレントしても一世を風靡した大橋巨泉が、ガン闘病の末に82歳で亡くなってから、今年7月に丸7年を迎える。
生前、取材では何度かお世話になったが、いつも「なんだ、君はそんなことも知らないのか」とお叱りを受ける一方、不勉強な筆者に対し、子供でも理解できるように噛み砕いてわかりやすく説明してくれる、あの話術には毎度、感服したことを憶えている。
さて、そんな巨泉がかつて参院選に民主党(当時)から比例代表候補として立候補し、41万票を集めて当選した。当時、幹事長だった菅直人氏に「三顧の礼をもって」迎えられたのは、13年7月だった。巨泉は優雅なセミリタイア生活をエンジョイしていたが、出馬会見では「セミリタイア生活を6年間あきらめ、国に尽くす」と熱く語っていた。
41万票という大きな支持をバックに「党の顔」としての役割を期待した民主党は、新人の巨泉をなんと、予算委員会の質問者に大抜擢。結果、当時の小泉純一郎総理と「ショー・ザ・フラッグ」の解釈をめぐり堂々対決するなど、党の将来を担う存在になる…予定だった。
だが、テロ特別措置法をめぐり、菅氏や鳩山氏と対立。結局、党上層部との間にできた溝が埋まることはなく、半年余りで辞職を決断する。そして行われたのが、02年1月29日の、1時間に及ぶ辞職記者会見だったというわけである。
沈痛な面持ちで会見場に現れた巨泉はまず、辞職の理由を語った。
「昨日の予算委員会を見て、辞職を決意しました。いちばん責任があるのは小泉総理なのに、誰も悪口を言わない。民主党は自民党と同じだ。僕が辞めることで国民が考え直してくれたら」
同時に、こんなことも。
「辞めることは、今日、突然決めたわけではありません。女房にだけは打ち明けました。私が夜ロクに眠れず、寝返りばかり打っているのは知っていましたからね」
心労が重なっていた夫人への、複雑な心情を吐露したのだった。
とはいえ、就任から半年余りでの辞職には「無責任」「期待外れ」との批判が渦巻いた。だが民主党関係者を取材すると、意外な答えが返ってきたのだ。
「正直、民主党の中で誰よりも日本の行く末を案じていたのが、巨泉さんだったと思います。しかし、正論が通じないのが政治の世界。残念ですが結局、巨泉さんも魑魅魍魎が棲む永田町の構造に嫌気がさしたのでしょう。ご自身は辞職で一石を投じられれば、と語っていますが、永田町はそんなに甘い世界じゃない。芸能界では敵なしと言われた巨泉さんにしても、打つ手がないほど生臭い世界だということです」
会見から21年。毎年1月になると、あの苦渋に満ちた辞職の弁を思い出すのだ。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。